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「っしゃー! 間に合ったぁ!!」
「山下、うるさいぞー」
「すみませーん! ははっ、あ、ほらほのちゃん、こっち」
小走りで飛び込んだ教室には、もうすでにほとんどの生徒が着席していた。担当教師が郁を注意すると、くすくすと教室のあちこちで笑みが零れる。
そこでは誰も、穂香に視線を向けてはこなかった。丸椅子を差し出す郁の眼差しには、同情もなにもない。ただいつものように、とろくさい穂香を、姉のように面倒見ているだけだ。
いつものように。なにも変わらずに。
夏美や春菜でさえ穂香の扱いに困っているのに、彼女だけはなに一つ変わらない。
「……郁ちゃん」
チャイムは、穂香が席に座るのと同時に鳴った。
窓にはカーテンが引かれ、教室の明かりが落とされる。穂香は郁の耳にだけ届くように、声を潜めてそっと言った。
「あのね、……ありがとう」
「ほんまほのちゃんは、しゃーない子やなあ」
ぎゅっと握ってくれた手はとても冷たいのに、熱いと感じるくらい、あたたかかった。
放課後、穂香は郁と共にやってきた昇降口で、妙な人だかりに出くわした。ざわざわと騒いでいるのは主に男子生徒で、正門の辺りでは部活動のユニフォームを着た固まりがうじゃうじゃと団子になっている。
なにかあったのだろうか。周りの会話に耳を澄ましてみると、どうやら正門のところに誰かがいるらしいことが分かった。
「めっさ美人やって。芸能人かな?」
期待したように郁は言うが、穂香にはさほど興味のない出来事だった。けれどそんなことを言えるはずもなく、自らも興味津々のように振る舞って、正門前の人だかりを背伸びして覗き込む。
そこには確かに、目を見張るような迫力美人がいた。
正門脇の花壇に浅く腰掛け、糊の利いたダークスーツをぴしっと着こなす長身の女性は、艶やかな漆黒の髪をポニーテールにして背に垂らしている。黒縁眼鏡が一層の知的さを醸し出しており、赤く口紅が塗られた口元には、ぽつんとほくろが浮いていて色っぽい。
「うっわ……。なにあれ、モデル?」
「どうだろう。……あ、でも、外国の人みたいだね」
「え? あ、ほんまや。英語しゃべってる」
これほど人だかりができているにもかかわらず、直接彼女が質問責めになっていない理由が分かった。勇気を出して声をかけても、返ってくるのは流暢な英語だ。いくら進学校とはいえ、英語で日常会話を交わせるのはごく僅かしかいない。
誰が呼びに行ったのか、英語教師であり、穂香の担任でもある小牧文子が小走りでやってきた。
英語教師のわりには幾分か拙い英語で話しかけ、何度かやりとりを交わす。段々とその表情が困惑したものに変化していき、ついに小牧は首を傾げた。けれど女性はうっすらと笑みを浮かべ、同じ言葉を同じ口調で繰り返す。
遠巻きにそれを見ていた穂香は、きょろきょろと辺りを見回していた小牧と目が合い、ぎょっとした。彼女は穂香と目が合うなり、ほっとしたように溜息を吐いたのだ。
「あ、赤坂さん、よかった、まだ帰っていなかったのね」
人並みを掻き分けながらやってきて、小牧はへにゃりと笑った。当然、その場にいた全員の視線が穂香に集中する。
ぐらり。世界が歪む。
顔が、視線が、声が、容赦なく穂香を取り囲む。顔の見えない顔が、声の聞こえない声が、存在の知らない誰かが、皆こぞって穂香を指さして嘲笑する。すぐ隣で郁が舌打ちした。その音だけが、やけにはっきりと聞こえた。
「赤坂さん、あのね、あの人、あなたの知り合い?」
「違うと思いますよ。さっき見たとき、知らん風な感じやったし」
「え、そうなの? どうしよう、それは困ったわね……。でもね、あの人、赤坂さんのこと呼んでいるのよ。行ってきてくれる?」
「教師がどこの誰とも知れん外国人に、生徒引き渡していいんですか。しかもこっちは相手のこと知らんのやし」
「それは……。でも、山下さんの問題じゃないでしょう。私は、赤坂さんに話しかけているの」
こういう会話になってしまったら、埒が明かないことくらい穂香にも分かった。しかし身体は一向に動こうとしない。地面に根を生やしたかのようだった。どう動けばいいのか、頭ではさっぱり分からない。
ただ人形のように立っているだけの穂香の眼前が、わっと二手に割れた。海を割ったモーゼのように、女性がピンヒールを打ち鳴らして人を分けてやってくる。
郁も小牧も、唖然として彼女を見つめた。
背の高い女性だ。キャリアウーマンという響きがしっくりくる。