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* * *



 怒鳴り慣れているとはいえ、それでも喉がひりついていた。要求する前に水を渡してきたスズヤはそれなりに気が利くが、薄いレンズの向こうにある目がどこか楽しそうに歪んでいるので油断ならない。
 差し出された水を一気に飲み干してグラスを突き返し、ヒュウガは髪すら毟る勢いで頭を掻き乱した。一度頭の中をすべて取り出して洗浄したいくらいには、ごちゃごちゃと雑多な考えが絡まり合っている。
 なにかを言いかけたスズヤは、扉の開く音を聞いて口を噤んだ。通信室にやってきたその人影が、退室を促す合図となる。一礼して部屋を出たスズヤと入れ替わるようにしてやってきたその人も、細いフレームの眼鏡をかけていた。だがこちらは、うっすらとレンズに色がついている。
 ヒュウガと比べれば随分と若く見える顔立ちだ。背も低く、パッと見ただけでは女性にしか見えない。にこやかに微笑むその人に、ヒュウガは疲れ切った様子で小さく問うた。

「……これで構いませんか、司令」
「ええ、十分です。上出来ですよ、ヒュウガくん」

 思い浮かべたのは、ついこの間まで学生だった二人の若い隊員達の姿だ。
 緑地防衛大学校出身ということもあって訓練慣れはしていたが、実地経験はあまりない。将来的にエリートコースを歩むだろうあの二人は、ヒュウガにとってはまだまだ青臭い子どもでしかなかった。
 目を離せばすぐに暴走する。頭でっかちのエリート候補生ばかりかと思っていたが、とんだ暴れ馬が混じっていたものだと、最初は呆れたものだった。それを二人も一遍に任される人事に頭を抱えたのも、そう遠くはない昔の話だ。
 それでも、彼らのことは学生時代から知っている。卒業後、特殊飛行部に配属されると聞いてからは、ずっと気にかけていた。二人とも、枯れるには惜しい若い芽だ。
 だからこそ、思う。

「よりにもよって、あの二人か」

 小さな独り言に、白を纏ったその人が笑った。屈託のない笑みだ。
 か細い指先を自身の唇に当てて小首を傾げる様は、不思議な魅力を持っている。

「あの二人でちょうどよかったじゃありませんか」

 ――いくらでも替えがきくんですから。
 残酷なまでに穢れのない笑みを浮かべたのは、テールベルト空軍ヴェルデ基地を統べる基地司令その人だった。


* * *



 まるで生き地獄だ。
 佐原孝雄が自殺してから二週間が経ったが、これほど苦しい二週間は人生で味わったことがなかった。
 父はすぐに無関係とされたが、マスコミは案の定、おもしろおかしく今回のことを報道した。なんらかの関係があるのでは――ローカル局とはいえそんな報道がされる度、家の周りを何台も車が囲み、好奇と嫌悪がない交ぜになった近所の目にさらされ続けた。
 胃の奥がぐるぐると渦巻いている。佐原の母親が赤坂家に乗り込み、「孝雄を返せ! 人殺し!」と叫んだ場面が何度も脳内で繰り返され、夜中に飛び起きて吐いたことも一度や二度ではない。

 ――大丈夫やから。堂々と生きとったらええねん。

 恥じることはなにもない。確かにその通りだ。けれどそう言った母は日に日にやつれ、目の下には濃い隈ができている。
 無遠慮で、心を犯すような奇異の視線は、当然学校でも向けられた。穂香を見て、ひそひそと話す、人、人、人。人の顔があちらこちらで風船のように揺れ、小さな笑い声や嘲りの言葉一つ一つが頭を揺さぶる。
 世界は、こんな風景だったろうか。今まで生きていたのは、こんな世界だったろうか。気が狂いそうな毎日だ。いっそ、自分も佐原のように死んでしまおうか。
 どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか、これっぽっちも分からない。学校中、町中の人間が自分を見て陰口を叩いているような気がする。
 人殺しの娘。悪魔の娘。あんな奴死んだ方がマシなのに。
 女でも男でもなく、若くも老いてもいない不気味な声が、穂香を絶望に案内していく。

「ほのちゃん!」

 はっとして顔を上げれば、目の前に呆れとも怒りともつかない表情で、郁が仁王立ちしていた。

「やっと気づいた! たっく、何回呼ばせる気なん? 次移動教室やで。先週、今日はDVD見るからって先生言っとったやろ」
「え、あ……」
「ほーら、はよ準備する! 遅刻したらどうすんの!」

 てきぱきと机の上に広がっていたペンやら教科書やらを片づけ、郁は穂香を無理矢理立ち上がらせた。
 ガタン! 大きく鳴った椅子の音に、一瞬教室内が無音になる。
 穂香は突き刺さるような視線を感じ、ひっと息を呑んだ。見られている。蔑まれている。責められている。凍り付いた穂香の手を、夏でも冷え性に悩む郁の冷たい指先が捕らえた。

「なにぼーっとしてんの! はよ行くで、ほのちゃん!」

 吐き気を催すどす黒い靄の中を、郁の声が突風のように吹き抜けていく。すると胸の痞えが少しだけ楽になって、ようやっと穂香は肺一杯に空気を取り込むことができた。
 夏美や春菜が廊下から気まずそうにこちらを見ているのが分かったが、郁はそんなことは知らないとばかりに穂香に教科書を押しつけ、廊下へと追いやった。
 立ち竦む二人にも当たり前のように声をかけ、四人で次の教室へ向かう。夏美と春菜が前を歩き、その後ろに郁と穂香が歩く。これはあの夏の旅行のときと、まったく同じ光景だった。


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