6 [ 221/225 ]

 口々に非難されながら、それでもハインケルは穂香から目を逸らさない。じっと見つめられることが苦手で、今まですぐに目を逸らしていた穂香でさえ、その瞳からは逃げられなかった。
 海色の双眸が、切々と訴えてくる。
 天使のような風貌で、彼はとてつもなく恐ろしいことを口にしている。気弱に震えていた少年はどこに行ってしまったのだろう。
 溜まった唾液を飲み下す音が、やけに大きく聞こえた。大きく喉が上下する。口元の震えが遅れて指先に伝わり、いつの間にか早鐘を打っていた心音を自覚した。
 まるで、ジェットコースターの列に並んでいるような気分だ。まだ乗っていない。乗っていないのに、聞こえてくる悲鳴が不安を呷って心臓を急かしていく。猛スピードで駆けていく竜のようなマシンに身を預ければ、あとは自分ではどうしようもない。上がって、落ちて。為されるがままだ。
 ジェットコースターは苦手だ。他人の悲鳴を聞かされるあの待ち時間も、恐怖を目前にして空を目指すあの時間も、内臓がふわっと浮かぶあの瞬間も、全部。終わったときには訳が分からなくなっていて、膝の力が抜ける。郁とテーマパークに行ったときも、乗ったあとで「うわ、ほのちゃん顔真っ青!」と仰天されたほどだった。

「穂香、君ならできるんだ」

 見慣れぬ青年に呼び捨てにされ、どきりとした。そういえば、ハインケルに名前を呼ばれたのはこれが初めてだった。彼は穂香の名前をちゃんと覚えていたのだと、妙なところで感心する。
 現実逃避だ。

「ちょっとやめてや! ほのにそんなことさせられるわけないやろ!? 外の状況見て言いぃや、あんなとこに行かせられるか!」
「俺も反対だな。民間人にそこまでさせられん。どうしてもってんなら、うちの隊から一人出す。それでなんとかしてくれねぇか、ハインケル博士」
「それじゃ駄目なんだよ、ヒュウガ艦長。この子は一度親と接触してる。匂いがついてる。この子から始まったんだ、この子で終わらせるのが自然でしょう?」
「待ってってば! そしたらあたしでもええやん! 警戒するかもしれんけど、でも絶対に来ぉへんわけちゃうんやろ!? やったら!」

 椅子から腰を浮かせた奏が、泣きそうな顔でハインケルに食い下がる。彼はその勢いに押されて怯えつつも、きょとんと──叱られる理由が分からない子どものような表情で、首を傾げた。

「なんで君はよくて、この子は駄目なの?」

 嫌味などない。他意などまったく含まれないその問いは、ひどく純粋なものだった。
 ハインケルの言うことももっともだ。危険だから穂香を行かせられないと言うのなら、奏だって行くべきではない。なのに彼女は、いつだって自分は平気だと言って先を走る。
 絶句した奏が、声なく首を振っていた。そんな姉の姿は、ひどくか弱く見える。普段はあんなにも頼りになるのに。穂香はいつも、その背を見守ることしかできなかった。できることなら目を背けようとすらしていた。自分のために頑張っている人の姿など、自分の無力さを眼前に叩きつけられているようで見たくなどなかった。
 お前が頼りないから動いてやっているのだと、そう言われている気がして。
 いつだって、立ち向かわずに逃げてきた。

「屁理屈言わんで! あたしだって、そんなん喜んで行くわけちゃうし! せやのに、みすみすほのを危険な目になんてっ」
「──私、行く」
「やんな! 無理に決まって、……は?」
「わっ、わた、し、行く。……行きます」

 みっともなく声は裏返ってしまったけれど、一応言葉の体(てい)を為していた。
 限界まで目を丸くさせた奏が、一人で百面相をしている。怒ったような、呆れたような、泣き出す寸前のような、苦笑のような。複雑な表情を浮かべて、姉はまじまじと穂香を見つめてきた。
 いつもはきはきとした物言いが印象的な奏にしては珍しく、彼女は何度も口籠って言葉を探しているようだった。いつの間にか、周りはしんと静まり返っている。話し声は絶えないけれど、穂香達を取り囲む人々は誰一人として口を挟もうとはしなかった。
 奏が大きく息を吸ったから、怒鳴られるのかと思った。──けれど聞こえてきたのは、瀕死の子猫のように小さくか細い声だった。

「……ほの、あんた、なに言ってんの?」
「だ、だって、そうするしか、ないんでしょう……?」

 奏ではなく、ハインケルに問うた。彼ははっきりと首を縦に振ってみせる。

「そうするしか、って、──アホ! もっと他になんかあるはずや! 無茶言うな!」
「お姉ちゃんだって無茶したじゃない!」

 反射的に怒鳴り返して、自分から飛び出た大声にはっとした。声だけではなく、全身がぶるぶると震えている。見上げた奏は今にも泣きそうなほど、真っ赤になった目のふちに涙を溜めていた。
 奏に怒鳴るのなんて、きっとこれが初めてだ。悲鳴以外でなら、体育の時間の号令くらいでしか大声は出したことがない。それでも小さいのだと怒られて、恥ずかしさに死にそうになりながら拷問のような時間を過ごしたのを覚えている。喉が痛い。せわしなく空気を取り込まなければいけない肺も、内側からきりきりと痛んだ。
 ──やめてよ、お姉ちゃん。泣かないでよ。
 まるで穂香が泣かせたみたいだ。いつも涙を拭ってくれるはずの姉が、穂香の前でぽろぽろと涙を零す。頬を伝う雫が、膝の上で固く握り締めた穂香の手に落ちてきた。

「だ、って、だってほの、めっちゃ震えてるやん」
「お姉ちゃんもだよ」

 奏の指先が、頬に触れた。優しく拭われて、自分も泣いているのだと気づく。

「嫌や、あかん。行かんといて、ほの。お願いやから。外は危ないねん。分かるやろ? 心配かけさせんでや、なあ。お願いやって、お姉ちゃんの言うこと聞いて」

 行かないで。
 その言葉と共に抱き締められ、この十年間、どれほど妹として愛されてきたのかを初めて自覚した。世界で一番幸せな気持ちになれるはずだった八歳の誕生日──すべてを失ったと思っていたあの日、穂香は新しい大切な家族をちゃんと手に入れていたのだ。
 失ったものはあまりにも大きい。叶うことなら失いたくないものだった。だが、同時に手に入れたものも、同じくらい大きくてあたたかかった。
 アカギの言うとおりだった。
 自分の殻に籠もって、穂香はずっと線を引いてきた。最初から線なんてどこにもなかったのに。勝手に壁を作って、可哀想な自分を一人必死に慰めていた。自分のために怒って泣いてくれる人が、こんなにも近くにいるのに。
 奏は子どものように縋ってくる。行かないで。何度も何度も繰り返されて、その言葉に甘えてしまいたくなる。


[*prev] [next#]
しおりを挟む

back
top

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -