5 [ 173/225 ]
必死の思いで呼吸を整え、涙を拭って顔を上げた。あとからあとから溢れてくるものが頬を濡らすが、気づかないふりを決め込んだ。喉の奥が痛みを感じるほどに締まり、不自然に胸が震える。歯の根がガチガチとぶつかり合う音を無視をして、代わりに耳を澄ます。
風と葉擦れの音以外に、聞こえるものはないか。ナガト達のもとへ行く手がかりが、きっとどこかにあるはずだ。
目を閉じて集中していると、遠くから近づいてくる足音が耳に飛び込んできた。一気に跳ね上がった心臓に、身体が真っ先に逃げを打つ。
「感染者!? ど、どっか、隠れるとこは……」
せめてどこかに隠れてやり過ごせたら。慌てて辺りを見回したが、隠れられそうな建物などは見当たらない。それでもなんとか大木の幹に身を隠し、しっかりと薬銃を握る。声には出さず、何度も大丈夫だと繰り返した。
木の陰からそっと覗き見ると、サーカスのピエロよりもずっと奇怪な動きをしながら走り寄ってくる人影が見えた。その唇からは、怪鳥のような声がひっきりなしに放たれている。
間違いなく感染者だ。さらに心拍が加速する。これ以上速度を増せば壊れてしまうのではないかと思うほど、強く、早く、血を吐き出す。
奏は息を殺し、その場に低い姿勢を取って身を隠した。十メートルほど先で、一人の感染者が立ち止まった。油の切れた仕掛け人形のようなぎこちない動きが、その気味の悪さを際立たせている。あとからやってきた二人の人物も、どうやら感染している様子だった。そうでなければ、あんな奇妙な動きはしないだろう。
三人は一ヶ所に集まり、円を描くようにぐるぐると回りながら手足を揺らめかせ、甲高い笑声を上げている。おぞましい儀式じみた動きを繰り返し、彼らは頭で八の字を描いていく。その血走った目がなにかを――他ならぬ奏を探しているようで、より一層激しく歯の根が鳴った。
こっちへ来るなと、胸の内で強く訴える。この上ないほど口が渇いていた。極度の緊張に襲われているせいだろう。細く絞った吐息が、それでも白く染まることにすら焦りを覚える。
まだか。まだ立ち去らないのか。冷えた地面に体温を奪われ、恐怖と寒さで身体が言うことを聞かなくなる前に、早く。
そう願うのに、感染者達はなかなかその場を立ち去ろうとはしなかった。まるで奏の匂いが残っているとでも言いたげに、しつこくぐるぐると回って前後左右に首を動かしている。
足が痺れそうだ。緊張感から、今にも膝が砕けそうだった。
頼りない身体に鞭打ちながら蝉のように幹に張りついていた、そのときだ。
強い風が吹いた。奏の後ろから、冷たい風が吹き抜ける。汗を吸った赤いマフラーの端が煽られ、宙を泳ぐ。瞬時に手繰り寄せた拍子に、指先に硬く冷たいものが触れた。ナガトにもらった、花のストールピンだった。
マフラーがほどけ、露わになった首筋を冷え切った風が舐めていく。肩までの髪が煽られ、寒空の下で弧を描いた。
身体がよろめくことはなかったし、突風に声を上げることもなかった。ただひたすらに石のように気配を殺していたというのに、その瞬間、異様なまでに見開かれた瞳がこちらを見た。
「ひっ!」
喉の奥にこびりついた悲鳴が音になったか、ならなかったか。それすら曖昧なタイミングで、彼らは地を蹴った。獲物を見つけた飢えた獣のように、その唇から涎を垂らしながら。
風の音か、それとも己の悲鳴か、奏にはもう分からない。ひた走り、頬を小枝が切りつけても構うことなく足を動かした。枯れ葉を踏み躙る足音が追いかけてくる。
腕に掛けたマフラーが落ちていったが、気づく余裕など皆無だった。
――嫌だ、来るな。頼むから来ないで、お願い、助けて。
あと数メートルまでに近づいてきた足音に、奏は走りながら振り向いて薬銃を構えた。戦わなければ、下手をすれば死ぬ。そう言い聞かせて、今にも上げそうになる悲鳴を懸命に飲み込んだ。
最も足が速いのは小柄な男だ。彼の首にも、確かに葉脈のような痣が浮いている。視界を滲ませる涙を押し出してしっかりと相手を見据え、十分に引きつけてから引き金を引く。
パンッと軽い破裂音と共に、目と鼻の先で男が倒れた。額を石にぶつけたような音がしたが、気にしている暇などない。逃げなければ殺される。あるいは、感染する。自分も彼らと同じようになるだなんて、想像しただけで怖気立った。
「ガァッ、うヒ、アはハハハっ!」
進むべき方向も考えず逃げていた奏は、眼前に突きつけられた現実に絶望した。
――道が、ない。
いくら小学生が遠足で登りに来る山とはいえ、整備されたハイキングルート以外は自然の山そのものだ。逃げ惑ううちにそんな道からはとっくに外れ、目の前には剥き出しになった地層が刑務所の壁のように高くそびえ立ち、行く手を阻んでいた。