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ぴたりと壁に背をつけ、左右を確認する。斜面を下る方がスピードは出るが、転ぶリスクが大きい。ならば上るか。しかしそれでは、体力があっという間に底を突くだろう。
その一瞬の迷いが致命的だった。
「ヒュあ、シ、ふふッ!」
感染者の一人はすぐそこにまで迫ってきている。もう逃げている余裕は残されておらず、奏はしっかりと銃口を彼らに向けて引き金を引いた。
――カチン。
「え? なんで? ちょ、なんでよっ!」
カチン、カチン。頼りない音だけが鳴り響き、肝心の弾が一発も出てこない。絶望感がにじり寄ってくる。「いやや、なんで、」一心不乱に引き金を引き、薬銃を振り、狂ったように指を動かしたが、それでもそれは黙ったままだった。
逃げ出そうとした足が竦み、地に根を伸ばしたかのように動かない。
不気味な笑声が迫る。血走った双眸が楽しそうに奏を捉えている。
「うごけっ、なあ、うごいてよぉっ!」
掠れた声は、自分の身体を動かすだけの効果すら持たない。
感染者の爪の間から白い芽のようなものが伸びている様を確認できるほど、男はすぐ目の前にまで迫ってきている。
蹴られた葉が鳴き、土が抉れ、小石が転がっていく。
お守りのように大事に握り締めていた薬銃を、駆け寄ってくる男に向かって投げつけた。力の入りすぎたそれは、男の身体を掠りもせずに地に落ちる。
ぼたぼたと零れ落ちていく涙が、唇の隙間から入り込んできた。随分と塩辛く、その刺激が中途半端に意識を引き戻す。歪む視界が見せる現実の代わりに、奏はこの場には似つかわしくない笑顔を思い出していた。
まるで人懐っこい猫のような、甘ったるい笑顔。
奏、と自分を呼ぶときのあの優しい眼差しが、いつの間にか胸の奥に棲みついている。
「ヒぁっ、ギュふぇへへっ」
肉が腐ったような臭いが近づく。
その気配に、奏は喉が焼けるほど強く叫んだ。
「いやっ……、ナガトーーーーーー!!」
――お願い、助けて。
刹那、強く目を閉じた奏の身体を、凄まじい衝撃が突き抜けた。
* * *
制服姿のままヴェルデ基地隊員御用達の総合病院に見舞いに来たチトセは、受付でケーキの箱を片手に押し問答を繰り返していた。時間にしておよそ三十分のやり取りの間、分かったことはたった一つだ。反対に、分からないことは山ほど増えた。
「訳の分からないことを」と言いたげな受付の職員とは最終的に不倶戴天の敵を思わせるような険悪な別れ方をしたが、それほど理解しがたい出来事だったのだと、誰とはなしに言い訳をする。ここにチトセの憧れる上官がいれば、すかさず拳骨を落とされていたことだろう。
それとも“あの子”が関わる出来事だから、自分以上に慌てふためくのだろうか。
どちらにせよ、訳が分からない。
ケーキをヴェルデ基地に持ち帰ったチトセは、女子隊舎の廊下をぼんやりと歩いていた。部屋に帰ったところで、このケーキを分け合える人物はいない。同室のマミヤは急に体調を崩して入院中だ。そもそも、その見舞いのために買ったケーキだった。
ろくに前を見ずに歩いていたせいで、誰かと肩がぶつかった。反射的に深く腰を折って謝れば、頭上から慌てた声が降ってくる。
「いやいやっ、軽くぶつかっただけだし、気にしないで! この子も無事だし、私はぜんっぜん平気だから! ね!」
首から重たげなカメラを提げた女性隊員――広報官のキッカはカメラを見せたあと、自分の肩を大きく回して微笑んだ。かと思えば、目ざとくケーキの箱を見つけ、「ケーキ?」と首を傾げている。その拍子に、肩の上でふんわりと内側にカールしたボブヘアが揺れていた。
年上かつ階級も上の存在ではあったが、彼女はマミヤと仲が良く、加えて親しみやすい性格も相俟って、チトセとも交流があった。軍人には到底思えない柔らかい雰囲気だが、彼女の直属の上官は鬼のように厳しいことで知られている人物だ。そんな人の下で働いているのだから、神経が細いわけではないのだろう。
「そうです。キルフィのケーキなんですけど、キッカ三曹、よかったら食べますか?」
「えっ、いいの? ――あ、でもそれ、マミヤさんのお見舞い用じゃ……?」
「あー……、そのつもりだったんですけど……」
歯切れの悪さに、ケーキにつられて輝いていたキッカの表情が曇った。彼女はファインダー越しとはいえ、ある種の人を見るプロだ。細かな変化も見逃さないのだろう。「どうしたの」ただの女の子ではなく三曹の口ぶりで、キッカが問う。