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* * *
「なんで、こんな……」
草木を分け入って突き進む山の中は、冬とはいえ緑が存在するはずの場所だった。日頃気にしたことはなかったけれど、真冬でも緑は見られるはずだった。
しかし、進めば進むほど、辺りには白が増えていく。これが雪化粧だったなら、どれほどよかったろうか。柔らかい雪の花が木々を飾り、地面を覆い尽くすその光景は、きっと美しかったことだろう。
望めば望むほど、緑は白に奪われる。無垢の象徴とされるあの色に、世界が蝕まれていく。
「うわっ!」
地を這う根に足を取られ、奏は前のめりに倒れ込んだ。膝を強烈な痛みが襲う。こんな風に盛大に転んだのは何年振りだろうか。
擦り剥いた手のひらがひりひりと痛み、幼い頃の記憶を呼び覚ましていった。
公園を駆け回り、小石に躓いてはすっ転んだ。あのときは、必ず誰かが助け起こしてくれた。注意不足を叱る母の手だったり、心配でおろおろとしている父の大きな手だったり、そこにいた見知らぬ誰かの手だったり。
けれど今は、誰の手も差し伸べられない。心配する声もかけられない。
それもそのはずだ。今の自分は、この場にたった一人なのだから。
そう自覚した途端、鋭い針が胸に突き刺さったような痛みを感じた。じくじくと痛みを与えるそれは抜くことも叶わず、徐々に全身へと広がっていく。奏はぐっと唇を噛み締めて立ち上がり、膝の土を払った。開いた手のひらは小刻みに震えており、汚れの中にじわりと血が滲んでいくのが見えた。
――ああまったく、笑えない。
目指すべき場所は、幸か不幸か白の植物が教えてくれた。迷ったら、より“白”が蹂躙している方を追えばいい。
もうどれほど進んだだろうか。この山に入ってから最初の感染者との遭遇以降、もうすでに二人の感染者を薬銃で撃っている。
一人はこちらに気づいていなかった。だから、物陰から背中めがけて発砲した。もう一人はこちらに向かってきた。だから、真正面から発砲した。
二人目の感染者は、まだ子どもだった。小さな頭、小さな身体。ふっくらとした頬に浮いた葉脈のような痣が痛々しく、白目を剥いた双眸がこの世のものとは思えずおぞましかった。
――まだ、子どもだったのだ。
気を抜けば砕けそうになる膝を叱咤して、懸命に進む。
子どもだからなんだ。撃たなければこちらが死んでいたかもしれない。それに、撃ったからといって、この銃では相手が死ぬわけではない。むしろ助かるのだ。他ならぬこの手で助けた。
それなのに。
「ああもうっ、くそっ!! やめろっ、考えんなあたしのアホ! 今はそれどころちゃうやろっ」
奇声を上げて倒れ込む子どもの姿が、頭にこびりついて離れない。悲痛を訴える声が、恨みがましげな眼が、崩れ落ちた小さな身体が、じわりじわりと呪詛のように奏を苛んでいく。
握り締めた薬銃が、あと何発の薬弾を残しているのかすら分からない。
もしまた感染者に遭遇したらどうしよう。もし弾が足りなかったらどうしよう。不安はあとからあとから湧いてきて、留まるところを知らない。心臓を突き刺すような痛みが襲う。恐怖に喘ぐ呼吸はひどく耳障りだ。
誰にも助けてもらえず、誰も助けられず、自分もあんな風になってしまったらどうしよう。
「う、ああああああっ!!」
溢れそうな恐怖を薙ぎ払うように、奏は吠えた。
闇雲に振り回した腕が、白く変色した葉を叩く。ガサガサと揺れる音に、ひしゃげた悲鳴が重なった。
「だいじょうぶ! あたしがっ、助けんの! やからっ、だいじょうぶっ」
無様に裏返る声を聞きたくなくて、冷え切った手で耳を塞ぐ。硬い薬銃の表面が肌を嬲ったが、それよりも己の指先の冷たさの方が不快だった。犬のように荒い呼吸を繰り返していくうちに、顎の先から雫が落ちるのを感じて奏は目を瞠った。
拭った指先に付着していた透明な雫に、鋭い痛みを感じるほど強く唇を噛む。
――ああ、そうだ。怖い。
未知の恐怖に、心が限界を訴えている。ともすれば狂いそうなほどの感覚に、頭から呑み込まれてしまいそうだった。
ならばあのまま、どこかへ隠れていればよかったのか。そう思うも、自分がそうできないことは誰よりもよく理解している。
正義の味方を気取りたかったわけじゃない。ただ助けたかった。無事でいてほしい、そう願っていた。それは今でも変わらない。どれほど恐ろしくても、助けたいと思うから前に進める。止まることなく歩き続けることができる。