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「あ、あの……、私、少しお買い物に出てきます、ね」
「あ? どこに」
「近所のスーパーです。すぐ、そこの」
歩いて十分ほどのところにあるスーパーは、ちょっとした買い物には十分だ。この場から逃げ出すにはちょうどいいと思っての発言だったにも関わらず、アカギは「そうか」と頷いて新聞を畳み始めた。立ち上がったついでにマグカップまで流し台に運ばれて、中腰の体勢のまま固まってしまった。
目を丸くさせる穂香に、アカギは仏頂面のまま顎で玄関を示す。
「俺も行く。早く準備しろ」
店内に流れる無駄に明るい三流テーマソングが、この空気にひどく不似合だ。
正直言って、気まずさで息が詰まりそうだった。護衛を目的としているのだから、アカギが穂香についてくるのは確かに当然のことかもしれない。だからといって、買い物カゴを片手にスーパーの棚を眺める間、常に真後ろに立つ必要があるのだろうか。なにも悪いことはしていないのに、まるで警察官かなにかに見張られている犯罪者のような気持ちになる。
かといって「離れてください」などとはっきり言えるわけもなく、落ち着かない気持ちのまま穂香はカゴの中に商品を入れていった。少しずつ重たくなるカゴが、そのまま穂香の心を表しているかのようにさえ思える。
小麦粉を手に取ったところで、アカギが不思議そうに首を傾げたのが視界の隅に見えた。
「なに作るんだ? 晩飯の準備にゃ見えねェけど」
「えっと、その、ケーキを……」
「ああ、それでこの買い物か」
「すみません……」
「……なんで謝んだよ。意味わかんねェ」
間髪を入れずに謝れば、呆れたと言わんばかりに溜息を吐かれて胸がつきりと痛む。思わず俯きかけた穂香の腕から、急に重さが消えた。乱暴にカゴを奪っていった太い腕は、他でもないアカギのものだ。その腕から逞しい背中へと視線を移動させて、穂香は未だに受け止めきれない現実を嘆いた。
盛り上がった肩や腕の筋肉も、すべてはあの化物と戦うためなのだろう。そんな人物とこうしてスーパーで買い物をしているなんて、到底信じられないことだった。
気を抜けば溜息ばかりが零れていく。そうすると、決まって彼は眉根を寄せる。鬱陶しそうに。弱い穂香を厭うように。
好かれていないのは分かっているが、好きで関わりあっているわけではない。むしろ、関わらないでいられるのならそうしたかった。離れてほしいとは言えるはずもないのだけれど。
「――なァ。オイ。聞いてんのか」
「えっ? あ、す、すみません、あの……」
「お前さ、……やっぱいいわ。それより、アレはもう作んねェのか」
通路の先で、子どもがお菓子をねだって泣いている。すぐさま母親にぴしゃりと叱りつけられているのが見えた。そんな何気ない光景が、ここが現実なのだと眼前に叩きつけてくる。
「あれ、って?」
「なんつったけか、あの、ほら。プリンみてェな白いやつ」
杏仁豆腐かと思ったが、すぐに違うと首を振られた。なんだろう。プリンのような白いもの。アカギの口ぶりからして、以前に穂香が作ったことのあるものらしい。となれば、思い浮かぶのはあと一つしかない。
「あ、もしかして、ババロアですか?」
「ああそうだ、それだ。アレ食いてェ。白いくせにうまいんだよな、アレ」
これは作れということなのだろうか。
黙って小麦粉を棚に戻すと、アカギは不思議そうな顔をした。「いいのか」あまりにもきょとんとした表情でそう訊ねられたので、やはりババロアを作れとのリクエストではなかったのかと一瞬身を固くしたが、「ババロア……」と蚊の鳴くような声で言うと、彼は途端に表情を綻ばせた。
いつも気難しい顔をしていたというのに、目元が和んだその表情は思いのほか柔らかい。訳もなく恥ずかしくなって視線を逸らしたが、アカギがそれに気づいた様子はなかった。顔が熱い。ぱたぱたと手で顔を扇ぎながら、穂香はババロアの材料をカゴの中に放り込んでいった。
途中、なにか会話をしたような気もするが、よく覚えていない。ちらちらと見上げたアカギの顔はいつも通りの仏頂面で、先ほどの笑みが嘘のようだったことははっきりと覚えている。