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 事態は緊急を要していた。
 一刻の猶予も許されぬ事態であった。
 アスラナ国王ユーリは端整な顔立ちにほんの僅かに疲労を浮かべ、朝議の席でもいつになく深刻な面持ちで伏目がちにしていた。
 準一級宮廷神官、ライナ・メイデンは重傷だった。魔物に貫かれたという右胸からはおびただしい量の血が零れ、衣服を赤黒く染めていた様は誰が見ても絶望を感じるものだった。
 純銀のロザリオは衣服と同色にくすみ、色を失った唇から漏れ出る吐息は非常に弱々しい。
 王都騎士団総隊長であるエルクディアが彼女を抱えて戻ってきたとき、城中の者が言葉を失ったのを鮮明に記憶している。常に心の波を均一に保っている青年王でさえ、肝が冷えたほどだ。

 血濡れの神官。
 そして、負傷した騎士団総隊長の姿。

 なにがあったのか、一体どのような状況だったのか、把握することは難しくとも、想像するだに難くない。
 兵士や他の聖職者達は皆一様に王を仰いだ。
 なぜ、こうなってしまうほどの魔物を相手に、未熟な神の後継者とたった一人の神官だけで、他の聖職者を向かわせなかったのか。
 青年王の判断は無茶ではなかったか。

 騎士団総隊長を護衛としたことも、魔導師を迎え入れたことも、ほとんどが王の独断であった。
 確かに王の権限は絶対だ。誰も逆らうことを許されない。それでもなお、他の者の意見を聞き、最良の判断を下すべく議会の場が存在するのではないか。
 誰も王の判断に意を唱える者はおらず、また唱えられる者もいなかった。それでも人々の中に燻った小さな不信の火種は、これからもことあるごとに威力を増すであろう。
 しかしそれは、ユーリにとっては承知のことだった。初めから反感を喰らうことを想定し、無茶とも無謀とも言える行動に出た。
 ――なれど、『こう』なるとは思ってもいなかったのだ。

「困ったものだね……」

 玉座に肘をつき、その上に顎を乗せてひとりごちた。ガラスのチェス盤がきらきらと光を反射させ、こちらの気苦労などまったく気にせずに美しさを前面に押し出している。
 神の後継者に傷はなかったものの、彼女は気を失って未だ昏々と眠り続けている。エルクディアから聞いた話によると、どうやら神気の暴走を起こしたらしい。
 体内で不調和を起こし、それを治めるべく眠りについたのだろうと医師は言っていたが、強い衝撃から逃れるために眠りの世界へ逃避するとなると、目覚めない可能性さえ出てくる。
 ユーリは大きな窓に視線をやった。こつん、と注意して耳を傾けなければ聞こえないほどの音で、窓が鳴る。
 こつん、こつ、こつ。
 何度か続いたその音は、しばらくするとぴたりとやんだ。窓の外には木々の緑と青空が広がるばかりで、小鳥の影一つ見えない。
 青年王は難しい顔をして嘆息し、手に握った駒をぽんと高く放り投げた。再び手の内に戻ってきたそれを握り締める直前、迷いない音で扉が叩かれる。
 入室を許可すると、予想通りの人物が姿を現した。手招けば、彼は玉座の前に跪く。
 新緑の瞳は光を灯していない。表情を消した顔は見ていて気持ちの良いものではなかった。

「怪我はもう、治ったのかい?」
「ああ。あれから三日だ、治りもするさ」
「さすがは騎士団総隊長――とでも言っておこうか。まったく……キミもそうだが、蒼の姫君にも驚かされる。彼女は?」
「依然眠ったままだ。今はライナがついてる」

 あれから三日。シエラは目覚めないが、重傷だったはずのライナは完治して今や彼女の傍についていられるほどだ。
 奇跡だと医師は言い、ユーリも柄ではないと思いつつも同じことを考えていた。
 誰もが最悪の事態を予想していたライナの体は、大量の血で汚れていたにもかかわらず、傷一つ――痣一つ存在しなかったのだ。
 服には確かに穿たれた跡がある。胸から背を貫いたという動かぬ証拠があるというのに、彼女自身には一切の証拠が残っていなかった。
 医務室へ運ばれたとき、エルクディアが状況を説明しなければ医師は現状の不可解さに卒倒しただろうと語っていた。

「……意識が途切れる直前、聞こえたのは完璧な神言だったそうだ」

 ライナのことを考えていると察したのか、エルクディアは分厚い深紅の絨毯が敷き詰められた階段を一歩一歩確かめるような足取りで上ってくる。
 ユーリのすぐ傍らにある大理石の円柱に背を預けると、彼は重たい息を吐き出して金の髪を掻き上げた。
 神官は怪我ならば――特に魔物に受けたものであれば――、神言によって癒すことが可能だ。
 だが聖水を造り出す神言しか知らないはずのシエラに、どうやって回復呪が唱えられよう。
 ラヴァリルも証言する『一言一句完璧な神言』は、その絶大なる効力を持ってしてライナの命を救った。通常であれば、神官の回復呪を持ってしても出血多量で死に陥っていたであろう窮地を、神の後継者は自らの力だけで脱したのだ。

「あの場に他の聖職者はいなかった。疑いようのない、姫君の力――か。神の力の片鱗が、ライナ嬢の『死』という恐怖によって半ば強制的に目覚めさせられた。断片とはいえ制御できない強大な力ゆえに、暴走を起こした。……そう考えるのが妥当かな」
「だろうな。簡単な言葉一つで、結界も張ったし祓魔もこなした。なによりあのときのシエラは……」

 
 ――ひとを、こえていた。



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