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えるくん、と心配そうにラヴァリルが叫んだのが分かった。どうやらなかなかに凄惨な状態らしい。
生温かい液体が足を伝い、地面に広がっていく。痛みが酷い。腱が切られていないのが幸いだった。
この我慢比べも、有利な立場にいるのはエルクディアの方だ。
心を殺して剣の柄を半回転させる。再び襲ってくる激痛に呻いたイェランのあぎとは容易に弛み、その隙にエルクディアは剣を大きく横に薙ぎ払って足からイェランを引き剥がした。
「っ……!」
僅かに肉が持っていかれたが、動けないほどではない。遠心力に負け、双子の人狼は血の軌跡を残して地面を滑り転げた。
イェランが体を起こそうともがくが、どくどくと腹部から流れ出る血がそれを邪魔していた。
イェスタはもうぴくりともしない。ならばイェランにもそろそろとどめを――と剣を握る手に力を入れ直したところで、凛、と涼やかな声が流れた。
「<――神の裁きを>」
それがシエラの放った神言だとエルクディアが気づいたのは、脇を抜けた一陣の風がイェスタを掬い上げたときだった。
清澄な風はイェスタの体を魂ごと包み、瀕死の状態だった魂をいとも容易く浄化せしめた。
たとえ魔物を傷つけたのがただの人間でも、心臓を突けば葬ることができる。魔物も人間や動物と同じで、血を流しすぎれば死滅する。
異なるのは、その死した魂が二度と輪廻に加われないということだ。
それを浄化して再び輪廻に導くのが、聖職者の力であり、唯一の救いであると人々は考える。
聖職者の祈りは魔物を灰に変え、この世から彼らを消し去る。まるで聖火に焼かれたかのように、聖職者が鉄槌を下したあとには灰だけが残るのだ。
辺りに散っていた血でさえさらさらと灰に変わっていく片割れを目にし、白く濁り始めたまなこから涙を零しながらイェランが慟哭する。
怒りだけで飛び掛ってきた人狼にもはや理性はなく、弱った体は赤子の手を捻るよりも簡単に刀身で受け止めることが可能だった。
「ヨクモ……ヨクモイェスタヲ!」
「お互い様――だろ? お前だってライナを傷つけたんだ」
そのことを赦すつもりなんてない。
冷徹に突きつけられた言の葉はそのまま一撃となってイェランの体を弾き、切っ先が喉元を捕らえた。
なれど、背後に突然生じた殺気に彼は慌てて身を捩る。ちっ、と軍服を掠めたそれは、イェランの絶叫を誘発させた。
血の霧が目の前を覆いつくし、派手な水音を立ててまだ手を下していないはずの人狼が血の海に沈む。
驚愕するエルクディアの眼下で、全身を血で染め上げたイェランが小さくもがいた。
「ドウ、シ……テ…………」
聞き取れないほど小さく、どうして、と疑問を口にしたイェランは驚いたことに、見る見るうちに腐敗し、悪臭を放つ肉片を零して骨だけになった。
驚きを隠せないまま振り向けば、そこには気を失ったシエラを支えるラヴァリルが手にした短銃を腰帯に戻していた。
翠玉の瞳と目が合う。すると彼女はふわりと笑んで、「油断してたからだよ」と言う。その笑顔は、どこか違和感を覚えるほど晴れやかだった。
イェランにとどめを刺した最後の一撃は、魔導師の放った銀の弾丸だった。
魔導師の持つ対魔物用の銃は、魔術と同等の破壊力で魔物を内側から蝕んでいく。魂を破壊された魔物は、この世に存在を許されない。
通常の死であれば、動物と同じように土に還るが、魔導師の扱う魔術によってもたらされた死はそれすら赦さない。
体毛一本、血の一滴、骨の一かけら。なにをとっても残されず、生きていた証などありはしない。ただそこに残った淀みと穢れが、新たな魔物を引き寄せる。
それが『魔を死に導く者』が与える最期だ。
「魔物は破壊するべきだよ。なんであろうと、この世に残しちゃいけない。――おっと。ごめん、えるくんは聖職者よりの人だったね。よしっ、じゃあ終わったことだし帰ろっか!」
「お前……いや、それよりライナは」
「それがね――――」
エルクディアはせり上がってきた言葉をすんでのところで嚥下し、胸の奥で引っかかったなにかに気づかないふりをした。
長剣を鞘に収めて横たわるライナに駆け寄り、その体に触れた途端、駭然《がいぜん》として表情を強張らせた。
すぐ隣ではラヴァリルがそっと、抱きかかえたシエラを壁に寄りかからせている。
駆け巡ったのは、戦慄。
「どういう……ことだ」
答えを乞うように見上げた先にいたラヴァリルは、ただ静かに口端を吊り上げた。
+ + +
貴女、まだ目覚めの時ではない。
眠って。
ゆっくりと蒼に浸って。
今はまだ、その時ではないから。
眠って、ほら。
いつか目覚めるそのときまで。
+ + +
遠くからガラスの触れ合う音が聞こえ、鼻先をつんとした消毒液のにおいが掠める。すぐ枕元で生じた足音に、シエラはそろそろと瞼を押し上げた。
見上げた先には真っ白な天井が広がっている。大きな明り取り用の窓からは、窓掛けをなびかせる涼やかな風が吹き込み、春の気配がにわかに感じられた。
ここはどこだろう。
シエラは見慣れぬ部屋の様子に、ほんの僅かに首だけで寝返りを打つ。本当は体ごと動かしたかったのだが、鉛の紐でも巻きつけられたかのように体は重く、上手い具合に動かなかった。
右を見れば、寝台脇の小さな円卓に青い半透明の水差しが載っていた。窓辺には一輪挿しが置かれていて、どう見ても自分に与えられた部屋ではないと改めて実感する。
もぞりと再び首を動かし、左を見た。棚には多くの瓶が並んでいる。
一体なんだろうか――と考えたところで、優しい声が降ってきた。この声は聞き覚えがある。穏やかで、母のように優しくて、とてもあたたかい声だ。
シエラは緩慢な動作で声のした方へ首をもたげた。起き上がろうかとしたところで、ふっと影が降りてくる。
「おはようございます、シエラ。気分はどうですか?」
夢だろうか。ぱしぱしとシエラは何度か瞬いて、込み上げてくるなにかに気づかないふりをした。
返事をしないシエラを不思議そうに彼女は見やり、やや眉根を寄せて首を傾げる。
覚めない夢ならばいいと願いながら彼女の名を呼べば、シエラの視界一杯に、花の開くような笑みが広がった。