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凍てつく火柱に躊躇したのは瞬き一つ分にも満たないほどで、伸ばした両腕に感じたのはほんの僅かな痛みだけだった。
呼吸が酷く苦しいが、ここで引くつもりはない。視界のよく聞かない中、彼は必死で手を伸ばし、火柱の中心に立ち尽くす彼女を引き寄せた。
抱きかかえるというよりは拘束し、手のひらで目の前を覆う。小刻みに震える華奢な体に胸が締め付けられるような思いを覚えつつ、ひたすらに大丈夫だと訴え続けた。
――消えろ、きえろきえろきえろきえろ……!
ともすれば聞き逃してしまいそうな小さな声音が、悲痛な叫びを上げている。
色の失せた唇から消えろ、と零れるたびに、エルクディアの肌を冷気が撫でる。
恐怖と不安に押しつぶされそうになっている彼女を宥める方法が分からず、彼は歯噛みした。やわらかい皮が裂けるほど強く突きたてられた歯の先端が、ほんの僅かに赤く染まる。
ラヴァリルが懸命に止血を施しているその奥で、双子のどちらかがおぼつかない足取りで立ち上がった。
髪は濃灰。血色の眼差しが憎々しげにこちらを向いている。
「イェラン、大丈夫?」
「だいじょうぶ。イェスタも、平気?」
「うん、平気。でも少し、機嫌悪い」
イェスタの言葉につられるようにイェランが立ち上がる。彼は一度月を見上げて、赤く濡れた手を麻布の貫頭衣で拭いた。
エルクディアに魔気を感じ取る能力はない。だが、彼らの体から立ち昇る覇気だけははっきりと感じることができた。
払拭することの不可能な殺意は膨れ上がり、ひしひしとシエラに向けられる。
片手で剣を握り直したエルクディアの眼前で、双子の咆哮が轟いた。
刹那、二匹の狼が姿を現した。
「――人間風情ガ、調子ニ乗ルナ!」
血に飢えた牙をちらつかせながら、二匹の狼が躍り出る。見上げるほど高く跳躍したその体は、真っ直ぐにシエラとエルクディアに狙いを定めて降りてきた。我が身を盾にしようとシエラを包み込んだのだが、風の滑る音と同時に冷気が脇をすり抜けた。
「<来るな>」
はっきりと告げられた拒絶の意。
短い言葉は神言へと即座に成り代わり、鉄壁の結界を築き上げる。
ギャンッと獣特有の呻き声を上げて弾き飛ばされていった双子は、地面を転がるように滑っていく。路地裏を抜け出すほどの衝撃によってレンガの壁に叩きつけられたせいか、ぼきりと骨の折れる嫌な音がした。
幾重にも折り重なった不可視の結界に守られているのだと感じ、エルクディアがそろそろとシエラから身を離す。
彼女の双眸は猫のように光り、薔薇の唇からは吐息のような神言が零れ落ちている。
ためらっている暇はない。
エルクディアは一言ラヴァリルに声をかけると、意を決してシエラの傍から双子のもとへと駆け出した。
走れ。斬れ。殺せ。相手は獣。主に仇なす不浄のもの。
どくん。体の奥底から湧き上がる声に、心臓が呼応する。
身の内で言葉を吐き連ねるのは騎士としての魂か、それとも竜と恐れられる狂気の一部か。
人のいいとは言えない、酷薄な笑みが口元に浮かんでいるのをエルクディアは自覚した。
命を奪うことに快楽を覚えたことは一度もないが、備わった力を揮って相手と競い合うことはなによりも好む。
以前、戦から戻ってすぐのエルクディアを見て、仲の良かった侍女がその顔に戸惑いを浮かべたことがある。
ほんの一瞬、泣きそうに歪んだ瞳を――そこには隠し切れない恐怖があった――、今でも忘れることができない。
彼女は言った。おかえりなさい、よくぞご無事で。怯えた声を必死に押し隠し、頑張りすぎて上擦った声で言った。
逃げ出してしまいそうになる足を叱咤して、落ち着いて踵を返して返り血に濡れたエルクディアのために布を取ってきてくれた。
真っ白な洗濯物を握る手が震えているのがひどく滑稽で、同時にとても申し訳なく思った。
だからもう、できることなら心の奥底に潜む猛りが目覚めた姿を、守るべき相手に見せたくはない。
目の前に膝を折るイェスタが苦しそうに呻き、血を渇望するあぎとを開く。彼はそのしなやかな胴に向かって、迷いなく長剣を振り下ろした。
「イェスタッ!」
「グゥアアアアッ!」
溢れ出た血溜まりに足を踏み入れれば、ぴしゃ、と耳障りな水音がする。背中に感じるのはシエラの放つ神気だろうか。
冷ややかな風が、頬の横の髪をなびかせている。
エルクディアの一撃を避けきれず腹の一部に深手を負ったイェスタは、漆黒の毛並みに赤黒い血をこびり付かせ、その場でもんどりうつ。
すかさず次の攻撃を仕掛けようと動いたエルクディアの前に、イェランが立ちはだかった。血泡を零す片割れを背に庇い、憤怒に瞳を燃やして牙を剥く。
「――助かったよ」
その場にそぐわない台詞に、イェランの目元がぴくりと揺れた。
「さすがに子供の姿されてたんじゃ、斬りにくかったんだ」
「ナッ……!」
風だ。
ライナを抱えて傍観に徹していたラヴァリルが思わずそう口走るほど、エルクディアは俊敏な動きで斬り込んだ。もうここは路地裏のように行動を制限されない。
思うが侭に、存分に剣《つるぎ》を振るうことが許される。
一閃をかろうじて皮一枚で避けたイェランだったが、鼻先を掠めた切っ先の鋭さに瞠目する。
揺らいだ視線を見逃さず、エルクディアはさらに大きく一歩を踏み込んだ。
「ガアアアアアアアッ!」
絶叫が耳朶を打ち、手のひらには確かな感覚が伝わってくる。濃灰色の狼の体を横から貫いた銀の刃は、血に濡れててらてらと不気味に光を反射させていた。
切っ先はイェランを当然のごとく貫通し、地面に縫いとめるようにイェスタの胸の辺りに突き立てられている。
ぐっと柄に力を込めて押し込めば、さらなる叫喚がその場に響いた。イェスタは何度か大きく痙攣したが、ぐったりとしてもう動かない。
だがイェランは刃が体を貫通しているのにも関わらず、鋭い牙と爪をエルクディアに振るった。
大きく開かれたあぎとが左大腿部を襲う。鋼よりも硬い牙がずぶり、と深く喰い込んでくる。思わず痛みに眉根が寄せられた。