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「ライ、ナ……?」
「あ、間違えた。人間の心臓は右じゃなかったね」
「ライナ? おい、ライナ!」
「ざーんねん」

 残虐に踊る声音。僅かな月明かりに濡れ光る細い腕。

 なんだこの光景は。
 シエラの眼前に広がるものは、どう見たって異質だった。眉を寄せて呻くライナの背から、木々が枝を伸ばすようになにかが生えている。
 赤黒く光り、抉り取った肉塊を無造作に放ったそれは、子供の小さな手だ。
 イェランが狂気じみた嗤いを浮かべながらずっ、と腕を引き抜く。支えを失ったライナの体はいとも簡単に膝から崩れ落ち、服と地面とを赤く染め上げていく。
 闇でも見通す瞳が穿たれた傷口を見た。途端にシエラはそれを後悔する。

 小さな握りこぶし大の穴からは、鮮やかな肉の色と血とが混ざり合っている様や、奥に白い骨のようなものが確認できた。
 胃の中にあるものが込み上げてくるのを感じ、手のひらで口を覆う。感情的か生理的か、どちらか分からない涙が頬を伝った。

 黒炎が消えたのはなぜだ。

 ――ライナが庇ったからだ。

 神聖結界が間に合わないと判断するなり、彼女は危険だと分かりつつも簡易結界に切り替えた。
 たった一度の黒炎しか防げないと、おそらく分かっていただろう。それでも、自分の身が危険だと分かっていても、彼女はシエラを守るためにその道を選んだのだ。

 この命に、どれほどの価値があるか。

 荒くなる呼吸に思考が追いつかなくなる。頭の中がすうっと真っ白になっていき、すでになにも考えられなくなっていた。目の前ですら白く染まる。
 朦朧とする意識の中、最後に聞こえたのは「次は君の番だよ」と嗤う、おぞましい魔物の声だった。


+ + +



 華奢な体から伸びているのは、赤黒く染まった細い腕だ。驚愕に見開かれた双眸と、悲鳴さえ零れない唇が悲痛を訴える。

 まるで悪夢。そう、悪い夢と言ってしまうのが最も相応しい情景だ。
 鼻の奥に、鉄とは比べ物にならない濃いにおいが滑り込んでくる。ともすれば怒りに我を忘れてしまいそうになる中で、エルクディアはしかと守るべき主を視線の先に置いた。一刻も早く彼女をこの場から引き離さなければならない。

 しかし彼が見たのは、ライナの崩れ落ちた姿と、凍てついた純白の火柱が上がる様だった。
 身を切り裂くような冷風が、爆発に伴って体に叩きつけられる。思わず顔を腕で庇ったが、絶えず風は吹き荒れ、竜巻の中心に身を置いているかのような錯覚に囚われる。
 目を細めながら見た先には、強風に煽られて波打つシエラの蒼い髪が存在した。

「一体なにが……」
「神気の暴走――かな。あまりにも衝撃的過ぎて、箍が外れたか……それとも、それが原因でなにか嫌なコトを思い出しちゃったか、だね。どっちにしろ、あれはヒトじゃない」

 天を貫かんばかりの勢いで昇る火柱に、ラヴァリルがぽつりとそう漏らした。
 どう見てもあれは火だ。
 それなのに肌に感じる空気は冬のそれよりも冷たく、揺らめく炎に舐められた木の葉がぱしり、と乾いた音を立てて凍り付いている。
 ――確かにそれは、人の持つ力を遙かに超えている。
 聖職者や魔導師も、常人からは考えられないような力を発揮する。だがそのようなものとは比較にならないくらい、今のシエラから放たれる雰囲気は異質なものだった。
 言い表す言葉を探そうとも、的確な語句が見つからない。神々しいという言葉はこのためにあるのか、とエルクディアは感じた。

 シエラはやがて緩慢な動きで右腕を持ち上げ、双子の魔物を斬りつけるようにすっと横に一線を描く。次いで轟音が辺りを取り巻き、一瞬のうちに小柄な人狼達は吹き飛ばされて壁に叩きつけられた。
 足元を攫っていくような風にエルクディアはぐっと力を入れ、信じられない思いを抱えながらも火柱の中に身を置く彼女をじっと見つめる。視界を占領しかねない蒼い髪の波の向こうで、ぐったりと横たわる人狼の影が確認できた。

 突然のことに慌てるも、ラヴァリルがすぐさまライナのもとへ駆け寄る。
 抱きかかえたライナの体は冷たく、青ざめた顔からは生気が徐々に欠けていく。荒い呼吸を繰り返すたびに胸から溢れ出る鮮血を前に、ラヴァリルは睫を震わせた。

「えるくん! あれ、止めないとまずいよ。さすがにこんなトコで暴走されたら困る!」
「分かってる! でも、どうやって……」

 シエラを取り巻く風の威力は、鍛え上げられたエルクディアの足をも阻む。
 顔を腕で庇いながら進むのがやっとだというのに、暴走して渦を巻く神気の中、どうやって彼女を落ち着かせればよいのだろう。
 このままでは民家を巻き込みかねないし、ライナとて時間がない。切迫した状況の中、エルクディアはほぞを噛む。

 やがて体を起こしたイェランが、口の中を切ったのか血の混じった唾を吐き出した。思いの外衝撃が大きかったのか、そのまま壁に寄りかかって痛みを堪えるように眉根を寄せている。
 イェスタの方は額を押さえた指の間からどろりと血が零れ落ち、小さなかんばせの半分を赤黒く染め始めていた。細い足は折れたのだろう。痛々しく腫れ上がり、僅かな振動でさえ辛そうだった。

 シエラの神気は静まる様子を見せない。薄闇の中、爛々と光る金の双眸は獣よりも明るく、冷徹に双子を見下ろしている。
 あまりの強風に、塀の一部が切なげな音を立てた。

「落ち着け、シエラ! ――シエラっ!」

 轟音に掻き消されそうになる声は、シエラの耳に届かない。
 埒が明かないと判断して彼女のもとへ駆け寄るエルクディアの体は、鉛でも括りつけたかのように重たく感じられた。



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