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 シエラの背筋に冷たいなにかが駆け下りる。それはおそらく、この状況の現実味だ。
 神の後継者が一体どのような立場であるのか。そして、それを取り巻く周囲の人間がどのような意味をもたらすのか。
 すべての構造が脳裏に浮かび、一瞬のうちに霧散した。

 ――始めるのは自分ではない。もうすでに始まっているのだから。だからやるしかないのだ。恐れ、震えている暇があるのなら、落ち着いて敵を見据えた方が得策だ。

 がちがちと歯の根が震える。それでもシエラはやっと前を向いた。思うような動きができずに苦戦するエルクディアと、嬉々とした表情で銃を構えるラヴァリルが前線に出ている。
 その後方で神言を唱えているライナの声は凛としていて、しっかりと芯の通った心根を映し出すようだった。
 
「<この世に宿る精に乞う。聖鎖《せいさ》・聖縛《せいばく》・神速をもって、かの魔を追い捕らえよ>」
「うわっ!」「イェスタ!?」

 ライナによって振り撒かれた聖水が光の帯となり、生き物のように蠢いてイェスタの左足に絡みつく。
 がくんと体の均衡を崩したイェスタの足を、ラヴァリルの銃弾が貫いた。片割れに気をとられていたイェランを、すかさずエルクディアの剣先が襲う。
 だがイェランは慌てて上体を逸らし、貫頭衣の胸元をぱっくり裂けただけに被害を抑えた。
 左大腿部から深紅の血を流すイェスタを見て、シエラの心臓は大きく跳ね上がった。
 鮮血は地面にいびつな円を描いている。魔物も痛覚はあるのだろうか。
 その疑問は、イェスタの苦い表情から見て取れた。
 ライナがもう一本聖水を真上に放り投げ、ラヴァリルにそれを撃つよう指示を出す。
 銀の弾丸が一線を空に引いて瓶に命中し、その場には雨のごとく聖水が降りそそいだ。
 場が急激に清められ、途端に双子の魔物が唇を噛む。

「いいですか? 落ち着いて鍵となる一言を発するんです。この世に溢れるどの要素と盟約を結ぶのか、はっきりと示すために」

 しかし、とは言わなかった。不安は残る。できるのかと問われたなら、シエラは「できない」と答えるだろう。
 なれど翻る麻布は、嘲笑うかのように遠くはない位置で揺れている。 
 エルクディアとイェランが対峙する音が嫌でも耳に入り、シエラは暴れる心臓を抱えて大きく息を吸った。
 ――魔物の動きを止め、そしてその力を奪う。媒体は先ほどライナが出したような光の帯でいい。四肢を絡め、そして浄化を誘う清浄なる光。

「<縛れっ>」
「あっはは! なにこれ、この蛇みたいなのが法術? 怪我してても避けれるよ」
「この程度が後継者の力なの? ダメだよ、つまんない」
「でもでも、油断大敵ってコトバ知ってるー?」

 乾いた轟音が続けざまに三発、イェランとイェスタを襲う。
 曲芸でもするようにくるりと宙返りをして銃弾を避けたイェランにラヴァリルが狙いを定め、後を追うように何度も引き金を引く。
 神言にかろうじて反応した『蛇のような光の帯』は、魔物のどちらにも届くことなく消えてなくなった。
 集中が足りなかったのだろうか。それとも、もともと力がなかったのだろうか。
 前者であればいいと願いながら、シエラはもう一度強くロザリオを握り締めた。つい最近付けられたばかりのブルーダイヤを指先で撫で、心中でしっかりと光の帯を思い浮かべる。
 甲高い子供の嘲笑が、耳朶を叩いた。

「無駄だよ。そんなことしたって、所詮お人形はお人形」
「なにもできないお姫様より、そっちのオモチャの方がよっぽど楽しいや」

 銃を指差され、ラヴァリルが不愉快そうに眉をひそめる。己の武器を玩具呼ばわりされ、上機嫌になる者もいないだろう。
 彼女はそのまま二発銃弾を放ち、地を蹴って跳躍するとイェスタの左足を狙って、ぶん、と足を振り下ろした。
 思いがけない肉弾戦に、避けることを忘れたイェスタの体が地を滑る。ずざざ、と砂の削れる音が響いた。
 乱れ落ちた蜂蜜色の髪を耳に掛け直し、ラヴァリルはにいと口端を吊り上げる。
 生じた隙に乗じて、エルクディアがイェランの右肩を捕らえた。
 ずん、と鈍い衝撃と共に剣先が細い肩に食い込み、銀の刃を伝って血が滴り落ちる。
 闇の中でも不思議とはっきりと見える光景に、シエラは思わず目を伏せた。

「イェラン!」
「う、あ……。いったいなあ、もう……!」

 肩を貫通している剣を躊躇いもなく掴み、後ろに跳び退る反動を利用して引き抜く。肉の切れる音が生々しく聞こえ、さらに鮮血が飛び散った。
 ぬめりのある血に濡れた手のひらでイェランは肩を押さえ、とめどなく溢れる血を止めようと躍起になっている。
 放たれるラヴァリルの銃弾を転がり避けながら、イェスタは心配の眼差しをイェランに向けた。
 だが油断すればすぐ脇を銀の銃弾が掠め、魔気を容赦なく殺いでいく。
 やむことのないライナの神言がじわじわと彼らの体力を奪い、浄化に最適な空間を作り上げていた。
 エルクディアの剣捌きは、ここが路地裏だということを忘れさせるほど鮮やかなものだった。右へ左へ繰り出される素早い突きは、最小限の動きにとどめられながらも攻撃範囲を広く取っている。
 エルクディアとラヴァリルは徐々にイェランとイェスタの距離を引き離し、シエラ達に被害が及ばないように配慮していた。
 家々の明かりが届かないところへは、ライナの神言で生み出された炎の灯りがゆらりと揺らめく。
 頬を掠めた切っ先に、イェランが鋭く舌を打ったのが聞こえた。途端に、なんとも言えない嫌な予感がシエラの全身を駆け巡る。

「……おまえ、邪魔なんだよ」

 痛いほどの魔気が一瞬にして膨れ上がり、肉の焦げるような臭気がむん、とあたりに立ち込めた。不吉な音を立てながら、今までとは比べようもないくらい大きな黒炎の珠がイェランの手のひらに生じている。
 焦げ臭いのは、その黒炎が彼の手を焼いているからだった。
 屈託のない笑みを浮かべていたはずの子供は、不釣合いな酷薄さでにじり寄る。

 紅玉の瞳には、もはやエルクディアは映っていない。
 魔物にとって、厄介なのは戦闘能力に優れている騎士ではなく、その後衛の神官の方だ。
 たとえこの場に他の祓魔師がいたとしても、神官がいるかいないかで優劣は変わる。
 イェランが狙いを定めたのは、この場にいるたった一人の神官――ライナだ。
 それに気づいたとてもう遅い。シエラとライナに向かって黒炎が放たれる。
 ぐっと目を瞑ったシエラが聞いたのは、耳を塞ぎたくなるような爆音と、それに掻き消されたライナの神言――それから、苦しげな呻き、だった。



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