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「先ほども言ったように、セルラーシャ・グローランスは神の後継者に刃を向けた。それは大罪だ。死も免れない」
「……斬ったのか」
「ああ」
淡々としたエルクディアの返事を受けて、ルーンは長椅子から身を乗り出した。慌ててライナが静止をかけるが、苦痛に呻いた彼は倒れ込むようにして長椅子に引き戻される。
ひしひしと感じる激情に、シエラは言葉を失った。
「んで……なんでだよ! あいつは女で、それにっ、それにあんたに惚れてたんだぞ! それをっ」
一瞬エルクディアの瞳が丸くなったが、すぐに元に戻った。
どこかぼんやりとしたまま、シエラは納得した。「あんたに惚れてた」――だから、セルラーシャはあのような目をしていたのか。縋るような、助けを求めるような、切ない眼差しを。
雰囲気を変えないエルクディアの気迫に、ルーンが呑まれているのが見て取れる。
年齢差を感じさせない威圧感は、まさに騎士と呼ぶに相応しいものだった。どれほど外見が優しそうであっても、エルクディアが国一番の騎士なのだと思い知らされる。
誇り高く、主を守るためならば他の誰かを犠牲にすることを厭わない、忠実で残酷な生き物――それが、騎士だ。
仕えるべき主を定めた以上、感情に左右されないことが騎士の条件でもある。
互いに言葉を発しなくなった二人を見ていると、どこか息苦しいものを感じた。なにかを言おうとしたところで、ライナがすっと手を伸ばして静止をかけてくる。
「どんな理由があろうと、これが俺の仕事だ。神の後継者に害をなす者は、誰であろうと俺が斬る」
ルーンの顔が絶望に彩られた。焦点の定まらない瞳がエルクディアの付近をうろうろと彷徨い、虚しく散った赤銅の髪に落とされる。
「嘘だろう」と今にも泣きそうな震えた声がルーンの口から漏れたとき、ライナがすっと立ち上がった。シエラに「貴方はこのままで」と言い残して、ライナはルーンの額に浮かぶ汗を拭ってやる。
「今回、セルラーシャがあのような行動に出たのは魔気に当てられ、なおかつ許容範囲を超えた恐怖を味わって正気を失っていたからです。そのため、本来の彼女であれば理性で押しとどめることが可能な感情であったと判断しました。……エルクが斬ったのも、髪だけですよ。彼女には簡単な罰を与えましたので、今頃はアスラナ城にいるでしょう」
他に理由があろうとも、そんなことは知りません。
きっぱりとそう言い放ったライナの言葉に、ルーンはなんとも間の抜けた顔をした。無事なのだと分かった瞬間脱力した彼は、乾いた笑いを浮かべながら長椅子の背もたれに全身を預けた。
目元を肉刺(まめ)だらけの大きな手で覆い隠す。彼は引きつった傷口がじくじくと痛みを訴えようと、どうでもいいと言わんばかりに笑った。
心から安堵しきったその笑い声に、ライナは呆れたように息をつく。再び赤くなっていく包帯を見て眉根を寄せ、もう、と不満げに呟いた。
「それにしても簡単な罰、か? あれ」
「簡単でしょう、あれくらい。ねえ、シエラ?」
「……私には分からない」
「確かに、俺やお前にとっては簡単だけど……」
うーん、と唸るエルクディアを見上げたルーンは不思議そうに目を細めた。三者三様の反応をされ、いったいどんな罰かと訝っているのだろう様子がありありと分かる。
説明しようかと思ってやはり面倒だと思い直したちょうどそのとき、店の扉が吹き飛ぶ勢いで開けられた。
「たっだいまー! ラヴァリルちゃんのご帰還でーすっ!」
ばたん、でもがたん、でもない音がして外気が流れ込んでくる。その場に漂っていた緊張感やその他もろもろの空気を、ラヴァリルは跡形もなく吹き飛ばした。
彼女はシエラ達の反応が予想していたのと違っていたのか、小首を傾げながら「あれ?」と漏らす。
そのあまりにも能天気な様子に、エルクディアがゆうらりと立ち上がった。ゆっくりとラヴァリルの方へと向き直った彼は、こめかみを痙攣させながら怒号を放つ。
「少しは空気を読め、じゃじゃ馬!」
「あっ、ひっどーい! あたしだって急いで帰ってきたんだからね!? お城から全力疾走だよ、全力疾走! 女の子にそんなことさせておいて労いのコトバもないのー!?」
「これがライナかシエラだったらかけてる! 『あたし体力有り余ってるから任せて』って言ったのお前だろうが!」
「それとこれとは別でしょーっ、えるくん乙女心分かってなーい!」
――頭が痛い。
ぎゃんぎゃんと舌戦を繰り広げる二人を前に、シエラは素直な感想をぽつりと零す。せり上がってきたため息を遠慮もなく吐き出して、くるりと指に髪を巻きつけた。
見慣れた蒼いそれは螺旋を描き、果てしなく続く迷宮のように奥細っていく。
隣では鼓膜を震わせる二人の大声に嫌気が指したらしいライナが、苛立ちを隠さない風体で指先をテーブルで叩いている。
こつこつと一定の間隔で響くそれは、おそらく二人の耳には届いていないのだろう。
その間にシエラは波打つ赤毛に目を落とした。その場にしゃがんで掬い上げれば、自分のものとは違って優しくうねる髪が手のひらから零れ落ちていく。
その色に、シエラの中でなにかが浮かんだ。
「綺麗な、夕焼け色だな」
地平線を染め上げるあの赤によく似ている。相変わらずエルクディアとラヴァリルは吠えあったままだが、その喧騒の間を縫うようにしてルーンが笑った。
夕焼けの色。
それは一日の仕事を終え、人々を見守り続けた太陽が沈む間際、月と交代する前に最後の力を振り絞って燃えた色だ。ライナはそれを聞いて頷く。
セルラーシャは太陽のような娘だ。明るく、周りを照らす灼熱の星。時折激しくなる気性は炎を連想させる。
だが、ルーンは穏やかな微笑を浮かべたまま首を振った。
「――いいや。それは沈む太陽の色じゃない。朝焼けの……昇り来る、希望の色だ」
「昇り来る……希望?」
慈しみの眼差しを一心に受ける赤毛は、言われてみればそのような気もする。寂寥感漂う夕焼けの色というよりは、清々しく透き通った朝焼けの色に見える。
始まりを告げる希望の色。まさしくそれは、暁色の髪。
漂う空気が色を変えたのを感じ取ったのか、エルクディアとラヴァリルが舌戦をやめた。冷静さを欠いた己に気がついたらしいエルクディアが、失態を小さく呻いている。
そんな彼らを見ながら、シエラは深く息を吸い込んだ。紅茶の香りが胸いっぱいに満たされ、溜まっていた澱が浄化されていくような感覚を覚える。
「私も、あの娘は希望だと思う。…………機会があれば、伝えておいてくれ」
なぜだろう。一月と経たないはずなのに、自分の中で少しずつなにかが変わっている気がする。
けれどそれがなんであるのか分からず、シエラは眉間にしわを寄せた。そのとき、ラヴァリルがなにかを思い出したらしく「あ!」と声を上げる。
呆れたような視線がエルクディアから向けられ、ラヴァリルは不満そうに頬を膨らませるのだった。
「ユーリさんからのでんごーん。えっとねー、『ライナ嬢とエルクがいればなんとかなるだろう。むしろなんとかしたまえ。応援は緊急のときに送るよ。だから最後までお頑張り』だってさー」
あまりと言えばあまりな言葉にシエラは面食らった。なんだそれはと言ってやりたいが、なぜだかエルクディアとライナは、こめかみを押さえるだけに留まっている。