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 世界を知りなさい。
 貴女の両手には抱えきれない、その世界を。
 貴女が愛おしいと思う、その世界を。


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 昼下がりの王都クラウディオは普段の喧騒が鳴りを潜め、独特の緊張感が漂っていた。
 行き交う人々の口の端に昇るのは昨晩現れた魔物の話だ。王都で流れる噂は大抵、二日と同じものは続かない。それはたくさんの話の種が溢れていることを意味していた。

 澄み切った青空とは正反対の心を抱え、セルラーシャはとぼとぼとアスラナ城へと続く大通りを目指して歩く。
 彼女の家は王都の外れにあり、城門まではある程度の距離があった。女の足でも二時間とかからないだろうが、今の足取りでは半日ほどかけても辿り着きそうにない。

 どうしよう、と彼女は呟く。
 すべては己の蒔いた種なのだから、どうしようもない。
 分かってはいても無茶な『罰』の内容に、ため息をつかずにはいられなかった。一度深呼吸をして空を仰ぐ。群れを成して空を舞う小鳥に混ざりたいと望むも、現実はそうもいかない。
 仕立て屋の前を通りかかったとき、店の奥さんが慌てた様子で飛び出してきた。彼女は心底心配そうな顔をして、ぐっと肩を掴んでくる。

「大丈夫だったのかい、セルちゃん。昨日、魔物に襲われたんだって? 怪我は?」
「わ、私は大丈夫。ルーンがちょっと、怪我しちゃったけど……」
「あの子が? それは災難だったねぇ。でも神の後継者様が直々に助けてくだすったんだろう? よかったねぇ」
「あ、うん……」

 気をつけるんだよ、と言い残して母と同じ年頃の奥さんは店の中へ消えていった。窓辺には魔物が嫌うという銀の飾り物がやたらと並べられている。
 いくら広い王都とはいえ、噂は風よりも早く広がっていく。すっかり知れ渡ってしまった己の状況は、人々の好奇心となって再び自身の耳へと入ってきた。

 それによって呼び起こされる罪悪感に俯く暇も与えられず、セルラーシャはひたすらに城を目指す。
 泣き腫らした瞼を隠すように帽子を被り、彼女はしっかりと前を向いた。気を抜けば目の奥がつんと痛むが、それには気がつかないふりをしてやり過ごす。
 今考えなければならないのは、城へ行ってからの己の行動だ。
 しっかりと懐に収めた牌《メダル》を握り締める。それはライナが記した入城許可証が真実であることを示す、証明書の役割を果たす牌だった。
 このメダルと許可証さえ持っていれば、セルラーシャのような平民でもアスラナ城に入ることが許される。無論検閲されはするが、端から不審者として捕らえられたりすることはない。

 だが彼女の悩みは、入城することではなく入城してからにあった。
 ライナによって告げられた言葉を思い出し、逃げ出しそうになる足を叱咤しながら前へと進む。胸いっぱいに吸い込んだ埃っぽい空気にむせつつ、一歩一歩を確実に進んでいった。



 しばらくして彼女の目に飛び込んできたのは、どこか閑散としたこの場ではとても目立つ深紅の衣服だ。
 蝶々が花から花へと飛び交うように軽やかに駆けて来る女性は、確か魔導師のラヴァリル・ハーネットといった。

 踵の細い靴で走っているにも関わらず足取りはしっかりとしており、砂煙を巻き上げる様は野生の獣だ。
 背中でゆったりと編まれた蜂蜜色の髪が大きく上下し、その存在をさらに主張している。
 やがて彼女はこちらの存在を確認したのか、一瞬不思議そうな顔をしてからぶんぶんと左右に手を振った。
 「セールちゃーん!」と大声で名を呼ばれて気恥ずかしさを覚えるが、人通りの少ない中ではあまり関係もない。
 立ち止まるだろうか――そう考えていたセルラーシャの思考をあっさりと裏切り、彼女はすれ違いざまにぽんっと肩を叩いて言った。

「――お馬鹿さん」
「え?」

 振り向いたときにはもう、ラヴァリルの背中しか見えなかった。意味深な台詞に首を傾げるも、なんのことを示しているのか分からない。

 ルーンが死んだと勘違いし、神の後継者を手にかけようとしたことに対しての台詞なのだろうか。おそらくそうなのだろうが、いまいち腑に落ちなかった。
 首を傾げたままセルラーシャは再び歩みを進める。
 跳ねるようにして走るラヴァリルの顔に、楽しげな笑みが浮かんでいたことなど知らずに。


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 床に散った赤銅の髪と店の隅に転がった白銀の短刀を見て、目を覚ましたルーンの表情が強張った。ただでさえ出血多量で青白くなっていた顔が、さらに紙のように白くなっている。
 限界まで瞠られた瞳が、髪と短刀を交互に見つめた。

 肩から胸部にかけて大きな裂傷を負っていた彼は、白い包帯を所々赤く染めた状態で長椅子に腰掛けていた。
 荒い呼吸はだんだんと落ち着きを取り戻してはいるが、思考回路が状況についてこれないようだ。
 彼より離れた席に、シエラとライナは座っていた。エルクディアだけが彼のすぐ傍らに控えており、無言で彼の動向を見定めている。
 それが監視なのだとルーンが気がついたのは、エルクディアによって語られた事の顛末を聞き終わったときだった。

「どういう、ことだよ」

 獣のように低く唸る声は少しひび割れていた。エルクディアが水分を取るように勧めたグラスを払い除け、ぎっときつく睨み上げる。
 がしゃんと甲高く響いたガラスの割れる音に肩を震わせたシエラの手を、ライナが隣からそっと握ってくれた。
 鋭い眼光を真正面から浴びてもエルクディアは動じない。むしろ冷然たる眼差しでそれを受け止めている。

 ルーンは知っている。――居心地悪そうに放り出された短剣は、セルラーシャが護身用に持っていたものだ。それが剥き出しの状態で店の隅に転がり、床には彼女の波打つ赤毛が散乱している。

 そして肝心の彼女の姿は見えない。なにかが起こったことくらい、この光景を見れば誰でも想像がつくだろう。
 なおかつ彼女がなにをしたのか、はっきりと聞かされたのだ。考えられる結果は一つしかない。
 苛立ちと不安を隠しきれずに吐き出された舌打ちを聞いて、エルクディアが大儀そうに口を開いた。



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