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「心配だったの! ねえウィン、逃げましょう! あんな大きな竜と戦うなんて危険すぎるわ! このまま二人でどこかに行くのよ、ねえ!」
「我が愛しき黄金の太陽よ、それはならぬ」
「どうしてっ!?」
「我らと我らの世の理が、それを許さぬ。我らは戦わねばならぬ。――それがたとえ、血の繋がる竜であろうと」

 驚愕に目を瞠るタラーイェの目元に、優しいくちづけが落とされる。ウィンガルドが与えてくれるものはなんだって優しかった。難解な言葉も、そのくせくすぐったくなりそうなほど甘い言葉も、なにもかも。けれど、今このときばかりはその優しさが苦しい。
 ウィンガルドはタラーイェの知るどんな大人よりもずっと年上だった。当然だ、彼は竜なのだから。
 月明かりが水面に映り、星を散らす泉に二人で身を預けながら言葉を交わし合った夜を思い出す。静かな夜だった。彼は人間とは異なる瞳でタラーイェを見つめ、「小さな太陽」と囁いてきた。そのとき、タラーイェは思ったのだ。早く大人になりたいと。早く大人になって、早く彼の子どもを産みたいと。
 小さな子どもに愛のなにが分かるのかと、笑いたい者は笑えばいい。だが、タラーイェには――そしてきっと、ウィンガルドには分かっている。夜の泉でくちづけを交わしたこのぬくもりが、生涯の伴侶を誓うものだということを。

「それじゃあ、あの黒い竜は……」
「ああ。私はあれの産み落とした卵より孵った。我が母にして前王、アネモス。……我ら竜は血を重んじる。この血の始末は、私がつけねばなるまい」
「そんな……、だめよ、ウィン。だって……」
「頑是ないことを言うてくれるな、タラーイェ。案ずることはない。必ずそなたのもとへ戻ってくる」

 自然と溢れる涙に、ウィンガルドは困ったように目尻を下げるだけだった。抱き上げられ、目元に唇を添えられても涙は一向に止まらない。嫌だと首を振って縋りつき、「いかないで」と耳に直接囁いた。
 小さな胸の奥で、決して彼を離すなとなにかが必死に叫んでいる。彼はタラーイェにとって半身だった。家族よりもなお濃い絆で結ばれているような気さえしていたのだ。
 上空を支配するあの黒い竜は、ウィンガルドの母親なのだという。彼はそれを狩ると言うのだ。自分の母親を手にかけるなど、なんて恐ろしく悲しいことか。

「愛しき黄金の太陽よ、私はもう行く」

 必ず戻るからと微笑むウィンガルドの首にしがみつき、タラーイェは大粒の涙を散らしながら吠えた。

「やだ! ウィンが怪我するところなんて見たくない!」
「タラーイェ?」

 顔を歪ませ、声を上げて泣きじゃくるタラーイェに、ウィンガルドは目を瞠って驚く。それもそうだろう。これほど聞き分けのない子どもそのものの仕草を見せたのはこれが初めてだ。
 落ち着いた振る舞いも、大人びた口調も、すべてはウィンガルドに合わせるためだった。少しでも早く大人になりたかったからだ。少しでも早く、彼に相応しい存在になりたかった。しかしタラーイェは実際大人ではなく、十代の半ばにも届かぬ子どもに過ぎない。
 痛みの走る胸を抱え、愛しい存在を笑って戦地に送り出すことなどできやしなかった。

「ならば目を閉じていろ。耳も塞ぎ、眠っていればいい。すべてが終われば、私がくちづけをもってそなたを起こそう」

 大人に。早く、大人に。
 絆を求めて、心が逸る。

「私の、私だけの小さな太陽。どうか泣きやみ、輝くかんばせを見せてくれ」

 大人が交わすくちづけがどんなものか、タラーイェはまだ知らない。唇が触れ合うそれだけをくちづけだと思ってきた。だから竜の長い舌が初めて小さな口の中に侵入してきたとき、彼女の身体は驚きを隠せずに跳ね上がった。逞しい腕が逃げ出すことを阻み、竦んだ愛らしい舌を熱が絡め取る。
 苦しくなって脱力した身体をウィンガルドはそっと地面に降ろし、慈しむように頭を撫でて耳朶を食んだ。

「さあ、戻れ。――愛している、タラーイェ」

 優しい熱が消える。ふわりと風が渦巻き、美しい若草色の色が視界いっぱいに広がった。竜に姿を転じたウィンガルドが、葉を散らしながら飛翔する。彼のもたらす清らかで強い風に煽られながら、タラーイェは荒い呼吸の中に身を置いていた。
 笑ってくれと彼は言ったが、微塵も笑えやしなかった。
 暗黒の竜が飛ぶ空に、愛しい竜が消えていく。
 不安が消えない。恐怖が消えない。積み重なる寂しさが、呼吸すら苦しめる。
 声なく泣き続けるタラーイェの腕を掴んだのは、愛しい竜ではなく血相を変えた姉だった。



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