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「……世界を救う気など、お前の言うとおりない。だが私は、この手で、守りたいものもある。……今まで私を家族と呼んでくれた者達や、守ってくれた者達は、守りたい……と思う。どうしても私には世界という大きなものが想像できなくて、だから――」
ああもう、なにを言っているのか分からなくなってきた。
シエラはぎゅうと眉根を寄せ、薄く目を開けた。
困惑に満ちた瞳はどこか頼りなさげだが、その奥にははっきりとした強い意志が揺れている。ライナが嘆息し、エルクディアの苦笑が聞こえた。
大きなことは言えない。ゆえに身近なものを、手を伸ばした先に触れる者達を、守っていきたい。――そう告げられたセルラーシャは、俯いて沈黙した。
おとぎ話の勇者のように、正義感が強くていかなるときも周りを優先するような熱血漢だったら、もっと罵れた。
おとぎ話のお姫様のように、大人しくてか弱くて、守られてばかりの綺麗な心を持っていたら、もっと憎めた。
それなのに彼女は、そのどちらにも当てはまらない。正義感が強いわけでもなければ、大人しいわけでもない。やる気はないのに固い意志はきちんと持っていて、自らを取り繕うということを知らない。
まるでそれは、『お姫様』ではなくてありのままに咲く野花のよう。
セルラーシャの中でなにかがぱちん、と音を立てて弾けた。軽くなった胸をそっと押さえ、零れそうになる笑みを必死で堪えた。
猫のような瞳をじっと見据えて、相変わらず赤い目をしたままで彼女は微笑を浮かべた。
「――やっぱりあなた、嫌いだよ」
最後の一滴をぐっと拭ったセルラーシャは、ぽかんとしているシエラをよそに立ち上がる。彼女は床に広がった己の髪を見て、困ったように苦笑した。
シエラがエルクディアに腕を引かれて立ち上がる。彼の表情にはまだ警戒心が残っており、常にセルラーシャの一挙一動を見張っているように見えた。
そこでシエラは気づく。自覚せねばならないのだ、と。
否が応でも、この身に、そしてこの名に宿るさだめは変わらない。
そのことを理解しなければ、今回の――セルラーシャやルーンの――ように、多くの人を傷つける。「他の誰が傷つこうと関係ない」などと言えるほど冷淡になりきれない心に、ちくりとした小さな痛みが走った。
自ら手を差し伸べることも、振り払うこともできない。
このままでは、シエラ自身が最も厭う守られるだけの飾り物になってしまうのだ。
一歩も進むことができず動けずにいるシエラとは反対に、セルラーシャは自分の足で立っている。そのことがとても、今のシエラには羨ましく思えた。
「あの……本当に、ごめんなさい。謝って済むことじゃないって、分かってるけど……でも、その……罰なら、なんでも受けます。私にできることなら、なんだってします。許して欲しいなんて……言い、ません。もうこの人を傷つけたりも、しない」
だから、とセルラーシャは泣きそうな顔で笑う。エルクディアに対して真っ直ぐに向けられた視線の意味に気がついたのは、彼女の僅かな心情の変化を汲み取ったライナだけだった。
「エルク、そんな怖い顔で女性を見るのはやめて下さい。これ以上警戒する必要もないでしょう」
「だけど」
「エルク。分かっていますよね、セルラーシャ。それから、シエラも」
言い募ろうとしたエルクディアを、ライナが首を振って窘めた。彼女に向かって頷けば、満足そうにアールグレイの瞳を細めて優しい表情になる。
まだ怪訝そうにセルラーシャを見ているエルクディアの軍服をしっかと掴んだシエラが、深い息をついて体重を預けた。
無意識の内に随分と緊張していたのだろう。体に余計な力が入っていたせいか、肩の辺りが重い気がする。
「さてセルラーシャ。なんでもすると、言いましたね?」
ぱちくりとシエラは瞬いた。まさか、本当にライナは罰を与える気なのだろうか。
これほど反省しているのだったら、別にいいだろうに。
そうは思うものの、彼女はいたって本気の様子である。牢に容れ、狭苦しい部屋で過ごさせるのだろうか。
それとも、肉体的に苦痛を与えるのだろうか。なにも知らないシエラの脳内には、恐ろしい刑罰の光景がぐるぐると回る。
それはセルラーシャも同じらしく、若干青ざめた顔で二度ほど頷いた。
では、とライナが満面の笑みで告げる。
「――――――」
シエラとエルクディアは二人同時に瞠目した。セルラーシャは先ほどよりもさらに顔色を悪くさせ、「そんなの無理です!」と悲痛な叫びを上げる。
しかし愛らしい女性神官は無情にもその言葉を聞き入れず、笑顔で同じ言葉を繰り返すのだった。
店の戸口を、すっと指差しながら。