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「きゃああああああ!」
「ハサ!」

 寺院によく遊びに来ている子どもだ。天真爛漫な笑顔が眩しく、心根のまっすぐな少女だった。
 少女の眼前に、汚れた棍棒を振り上げる魔物が迫る。下卑た笑みを浮かべたオークが、切迫したアフサルの声を聞いてちらとこちらを見たのが分かった。「間に合うはずがない」そう言いたげに口の端を吊り上げ、小さな身体を叩き潰すべく棍棒を振り下ろす。
 瞬時に駆け出したが、この距離ではどうしようもない。それでもせめてと伸ばした手の先に、ぬちゃ、と生暖かい液体が飛んできた。

「なっ……」

 断末魔が迸る。
 頬を濡らした飛沫が収まった先にあったのは、光を弾く美しい漆黒の毛並みだった。そこに目を背けたくなるような少女の末路はない。
 被膜の翼の生えた黒豹が、オークの喉笛に鋭い牙を突き立てて首を振る。ひゅうひゅうと苦しげに浅く呼吸していたオークが、ゴリッと骨の砕ける音と共に絶息した。動かなくなった肉の塊を放り捨て、巨大な黒豹が血を滴らせながらこちらを見る。
 その背に見知った姿を確認し、アフサルはようやっと安堵の息を吐いた。

「ご無事ですか、アフサル大師」
「おお……これは随分と懐かしい顔に会うものだ。おかげで助かった、レイニダル。そして勇士、スカーティニアよ」

 震える少女を助け起こし、近くにいた若い僧侶に託して再び敵と向き合う。
 黒豹に跨ったレイニーは、濃紺の外套(ローブ)から真白いかんばせに苦笑を乗せて魔法具を投げてよこしてきた。このオリヴィニスの地でこれがどこまで使えるかは分からないが、なにもないよりは遥かにましだろう。

「あれほど小さかった娘が、これほど立派になるとは……。いやはや、時の流れとは不思議なものよ」
「大師……。一体いつのお話ですか」
「ざっと百年は昔の話であろうな。父御(ててご)に連れられわしの前に現れたそなたは、実に小さく、愛らしかった」
「アフサル大師……」
「以前のようにハナンと呼んでくれ。そなたの父御もわしをそう呼ぶ」

 父親の話は禁句だったのか、レイニーの表情が僅かに引き攣る。親子仲は良好だったはずだが、と一人ごちたところで、邪竜の咆哮が過酷な現実へと意識を引き戻した。
 雷撃が止まない。黒い竜巻は竜の国を目指し、攻撃の手を休めない。
 
「ハナンさま。あの邪竜が相手となると、皆さま方のお力なくしては乗り切ることはできません。――氷狼(ひょうろう)の血を引く、大師さま達でなくては」

 表情を強張らせるレイニーに、アフサルは小さく笑って首を振った。
 ――氷狼の血を引く大師。
 その言葉がやけに耳に残る。

「いやいや、案ずるな。じきにあの方が参ろう。星を継いだ、氷狼の長が」
「ハナンさま? 一体なにを仰っているのですか……? 彼らは、――純血種は、滅びたはずでしょう」
「おや、そのようなことを一体誰が言ったのやら。そなたとて、すでに次代の長に会っておるだろうに」

 言いざま、レイニーから受け取った魔法具を用いてオークを倒す。だが、この土地の影響が思いのほか強く出たのか、たった一度効果を発したきり魔法具はぴくりともしなくなっていた。だとすれば、これはもうただのガラクタだ。躊躇いなく捨て置き、アフサルは再び己の錫杖を構えて敵を見据える。
 その視界の隅で、レイニーが驚愕に目を瞠るのが見えた。

「そんな……だって……。待ってください、ハナンさま! 氷狼族は滅びたと……。今やもう、魔女である皆さま方しか残っていないと、そういう話では!? 氷狼の気配なんて、今まで一度もっ」
「レイニダル。えてして、昼間の星は見えぬものだ。すぐそこにあっても、目には映らぬ」

 オリヴィニスは、神に愛された土地だ。
 星の力を宿す氷狼の民が始祖となり、この国は命を繋いできた。自覚があろうとなかろうと、この国の民の多くは氷狼の血を宿している。ゆえにオリヴィニスの民は勘が鋭い。高僧ともなればそれは如実に表れるが、特殊能力とも呼べるような勘の鋭さは単なる修行の成果だけではなかった。彼らの血に宿る氷狼――幻獣の力が、ただの人間とは一線を画しているのだ。
 各僧院を纏め上げる大師達は皆、己の血が示すものを知っている。なにを隠そうアフサルとて、氷狼の一族としての力を自覚していた。たとえ純血種ではないとしても。
 一般的に、幻獣と交わった人の子は魔女と呼ばれ、生まれてくる子どものほとんどが女児だ。男児はごく稀で、かつては忌み子として疎まれていた。現世でも、場所によってはその風潮は色濃く残っているだろう。
 魔女といえば女児。けれど、氷狼の一族にその法則はあてはまらなかった。男児も女児も、同じような比率で生まれてくる。力を強く宿す者もいれば、人間と変わらぬ者もいた。そういった者のほとんどが、自分達が幻獣の血を引いていることを知らずに暮らしている。ましてや、氷狼という幻獣がいることを知っている者も、昔と比べれば随分と少なくなってきていた。


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