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*第35話
薄青の世界に花が咲く。
貴女が咲かせる氷の花、まだ本物の花ではない。
蒼い花、氷の花、そしてその先に生まれる氷の柱。
恐れることなく、迷うことなく、愛しい友の囁きに耳を傾け、導かれた道のままに。
戸惑わないで。恐れないで。
そこは私の愛した場所。
数多の約束が交わされた場所。
――私の愛が、眠る場所。
風音に契る
「早く建物の中へ! 門を閉じ、決して外に出てはならん!」
あちこちで悲鳴が上がる。
長い歴史を持つオリヴィニスの地に、未曽有の危機が押し寄せていた。かつてない混乱に飲まれた国は静謐な空気を失い、立っているだけで眩暈を引き起こすほどの恐怖に囚われている。
空から降ってくる石の礫には雷が纏わりつき、触れれば一瞬で身体を燃え上がらせていく。黒煙を上げながら絶叫する影があちこちで右往左往し、逃げ惑う人を嘲笑うように地面が揺れ、裂けた大地に足を取られて多くの人が重なりあった。
沈着冷静なオリヴィニスの僧侶らでさえ、この事態には様々な感情を高ぶらせずにはいられなかった。神に愛された地に魔物が押し寄せるなど、遥か昔よりありえないと考えられていたからだ。
子どもの悲鳴を、オークの奇声が飲み込んでいく。
空には邪竜が、地上には魔物が。オリヴィニスを襲う二つの脅威は、この国に住まう人々をあっという間に恐怖と絶望で包み込んでいった。
「大師! 東のっ、東の聖石が砕かれました! この地もあまり長くは……!」
オリヴィニスの地には、古来より竜の結界が張り巡らされている。竜と共存することが許されたこの国は、竜の結界に守られてきた。だが、魔物を阻んでいたのは竜の結界だけではない。オリヴィニスには、“神の愛”が宿っている。その象徴――聖石と呼ばれる神気を宿した石によって、魔物の侵攻を阻んできたのである。
しかし今、国の東西南北に祀られていたその石が、邪竜の攻撃によって壊された。
結界は綻び、地底より這い出たオーク達がその隙間から襲い来る。
オリヴィニスの十二の本山にあるそれぞれの寺院の大師達が住民を避難させ、各々懸命に策を講じているものの、聖石を壊された今となっては避難する以外に道はない。
いかに勘に優れ、鍛え上げられた僧侶と言えど、彼らは銀の髪を持つ聖職者ではなかった。ましてや魔導師のような能力も持っていないため、錫杖や剣を用いての肉弾戦でオークと対峙することになる。
戦いは苦戦を強いられ、オリヴィニスの各地で血が流れた。
祈りの言葉を食い荒らす恐怖が、幼子達の無垢な瞳を悲しみの涙で染め上げる。大地が抉れ、炎が上がり、炭と化した“人だったもの”の上を踏み越えて、人々は逃げ惑った。
首都アラーマでは国家元首が各地に使いを出したが、使者が無事に目的地に着ける保証はない。かつてない惨劇に、各僧院の大師達は険しい顔で空を睨むこととなった。
竜の国のすぐ近くに位置する麓の村では、オークの魔の手は未だ届いておらぬものの、邪竜の攻撃の影響を強く受けていた。タラーイェやアリージュらも寺院に避難していたが、絶え間なく続く衝撃と爆音、そして恐ろしい咆哮が精神を蝕んでいく。
一方、ファルゥの都バルティアール僧院では、大師アフサル自らが錫杖を振るってオークの軍団と対峙していた。
極彩色の僧衣を纏った僧侶達が住民を避難させ、しなやかな筋肉を躍らせて醜悪な魔物を払いのける。銀の光を宿す聖職者のように祓魔はできない。殴打し、貫き、血を噴き上がらせて、実に原始的な手法で敵を倒す。
清らかな僧侶達が極彩色の衣を返り血で赤黒く染める姿は、それでもどこか美しかった。
「バスィールがおれば……くっ!」
「大師!」
「案ずるな! そなたらは避難を優先させろ!」
飛んできた斧を錫杖で叩き落とし、じんと痺れた腕に思わず舌を打つ。首筋を伝い落ちる汗を肩で拭い、アフサルは五十を過ぎたとは思えぬ俊敏さで地を蹴り、一匹のオークの肩に飛び乗ってその脳天を貫いた。嫌な音と共に錫杖の先が沈む。頭蓋を砕いたそれを引き抜くと同時、オークの巨躯はゆっくりと前のめりに倒れた。
倒しても倒しても終わらない。次から次へと湧いてくる地底の使者達に、聖なる大地が悲痛な叫びを上げている。疲労で目の前が霞もうと、息が上がろうと、それでも足を止めることは許されない。
アフサルが次の敵を相手取ろうとしたそのとき、少し離れた場所で絹を裂くような悲鳴が鼓膜を揺さぶった。