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 間近で見れば、狼の大きさがよく分かる。そのきらめきに誘われるままに手を伸ばし、艶やかな銀毛に触れた。狼に触ったことなど今まで一度もなかったが、毛並みは柔らかく、触り心地は実にいい。犬の毛は硬いとばかり思っていたから、少し意外だった。
 氷を纏っているというのにその身体は不思議と温かく、そのまま顔を埋めて眠ってしまいたい衝動が芽生えてくる。だが、その優しい体温に浸っている場合ではない。
 オリヴィニスに訪れて以来、ずっと感じていなかった魔気がすぐそこに迫っているのだ。それも生易しいものではない。闇を見通そうとして、眼球の奥がじくじくと痛んでいる。
 ――この機に乗じてここを抜け出し、外の状況を確かめなければ。
 そう決意したシエラの心を読んだように、銀狼がベッドから下りて脚を折った。伏せをしたような体勢で背を向け、こちらを振り向いてくる。その凛とした顔には、黒い模様が走っていた。植物か水の流れを模したようなそれは、シエラの記憶を揺さぶるのに十分だ。
 まさか。
 信じられない。
 だが、こちらを見つめる大きな瞳の色には見覚えがある。銀の泉に紫の雫を一滴落としたような、星の光を思わせる不思議な色合いの瞳。そんな目をした人物を、シエラは一人しか知らない。

「お前、ジア……なのか?」

 銀狼は応えなかった。ただ静かにシエラを見て、ゆっくりと瞬きをしただけだ。
 だが、それだけで十分だった。

「ライナ達のところへ。それから、外の様子が知りたい」

 微笑みを湛え、シエラは銀狼の背に跨った。首に腕を回し、長い毛をしっかりと掴んで身体を固定する。
 慎重に起き上がった銀狼が、最初はゆっくりと、そして次第に風を切るように走り始めた。扉を破り、廊下を駆ける。見張りの竜達はいない。誰もがノルガドに続き、外の様子を見に行ったのだろう。
 たとえシエラ達を阻む者がいたとしても、問題ではなかっただろう。
 ――氷を纏った、愛しい友人がいるのだから。


+ + +



 十日余りが経とうというのに、状況は一向に好転の兆しを見せなかった。全身を倦怠感が取り巻くが、じっとしているだけではいざというときに動けない。ライナもそれがよく分かっていたからこそ、石牢の中で身体を動かし、よくない方にばかり転がる思考を無理やり振り払っていた。
 ヴィシャムは落ち着いている様子だったが、フォルクハルトの方はといえば、檻に閉じ込められた野犬よろしく不機嫌を露わにしている。うろうろと牢の中を動き回り、ヴィシャム相手に喧嘩を吹っかけては諌められるということを繰り返していた。
 それにしても、不可解にすぎる状況だ。
 与えられた環境は快適とは程遠いというのに、栄養価の高い食事が与えられ、脅しつけられたり暴力を振るわれたりすることもない。あまつさえ、ライナに至っては二日に一回はメスの竜に連れ出され、着替えや入浴が許されていた。
 逃げ出す隙もなかったが、それでもこの待遇は十分と言えた。捕虜にとって入浴は贅沢中の贅沢で、下手をすれば満足な食事を与えられることもなく放置される場合も多い。
 やっていることがちぐはぐで、竜の考えがさっぱり読めない。
 俯いたライナの頬をくすぐった洗いたての髪からは、不思議な草の香りがした。竜に渡された洗髪剤にはたくさんの香草や花が混ぜ込まれていて、認めたくはないがとてもいい香りがする。
 シエラは一体どうしているのだろうかと、何度目か分からぬ弱音が口をついて出そうになったところで、それまでまんじりともしなかったバスィールの気配が急に弾けた。
 外は明るいが、牢の中は相変わらず薄暗い。ライナのいる場所からは向かいの牢の中までははっきりと見えなかったが、そこではバスィールが表情を強張らせ、あらぬ方へ目を向けていた。紫銀の瞳が細められ、訝るように薄闇の中を睨みつけている。

「姫神様……?」
「あ? どーした、ぼーさん」

 柔軟運動をしていたフォルクハルトが動きを止めて訊ねたが、バスィールは応えなかった。彼の意識はすでにここにはなく、彼方へと解き放たれているようにさえ見える。
 片膝を立て、それまでひと時も手放さなかった錫杖を脇へとずらしたバスィールは、彫刻のように整った顔立ちに険しさを浮かべて言った。

「姫神様がお呼びだ。行かねば」
「は? なんも聞こえねぇぞ。急になに言って、――おわっ!」
「えっ? バスィー、――!?」

 光が溢れる。
 暗闇に慣れた目には針が刺さるほどに激しく、一種の苦痛を与えるほど強い光だった。誰もが顔を背けて光から逃げようとし、辺りに急激に満ちた冷気とそれに伴う神気に、閉じた瞼を抉じ開ける。


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