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「――ジアっ!」
その名を呼んだ途端に、シエラの耳を食んでいたノルガドが鋭く舌打ちを零した。皮膚を濡らしながら「違う」と窘めるように囁かれ、背筋に怖気が走る。
本能的な恐怖が瞳を滲ませる。こんなことくらいで怯えたくなどないのに、自分の中にはっきりと感じた女の部分が危険に身を竦ませ、震えを呼んでいた。
この手は嫌だ。この熱は、ただただ不快だ。
恐れを抱きながらも懸命にねめつけたシエラの顎を掴み、ノルガドは無理やり自分の方を向かせて嘲笑った。
「呼ぶ名が違うだろう。お前が呼ぶべきはあの裏切り者か、あるいはこの俺だ」
「だれ、がっ! いいからっ、離せっ! ――ジア! 助けっ、」
ここでもまた、己の無力さを突きつけられる。
神の後継者としてのシエラはひどく未熟で、それゆえに親しい者を危険に晒した。友人としてのシエラもなんの役にも立てず、輝く笑顔を奪ってしまった。挙句これか。女としての弱さまで強引に自覚させられ、悔しさに顔が歪んだ。
眦から零れ落ちた涙は熱く、――それが一瞬で凍りついた。
「なっ……!?」
「え……?」
どくん。
激しい音を立て、心臓が跳ね上がる。
急に冷気が立ち込め、吐き出す息が白く染まった。明かりの差し込む大きな窓が音を立てて凍りつき、神気の爆発と共に音を立てて砕け散った。
ノルガドの目が驚きに見開かれ、シエラを拘束する手が緩んだが、シエラもまた驚愕の渦に囚われて動けずにいた。パキン、パリ。そんな音を奏でながら、見る見るうちに床を氷が喰らっていく。
そこまでがほんの一瞬の間に起きた出来事だ。ノルガドが動きを止めていたのもほんの僅かな間だったというのに、彼が竜としての力を発揮しようとしたときにはもうすでに遅かった。
「――うぐっ!」
シエラの身体が唐突に軽くなる。
今の今まで上にのしかかっていたノルガドの体重がなくなったからだと気づいたのは、彼の呻き声を聞いたときだった。
冷気が全身を包む。低い唸り声を上げて割れた窓から部屋に飛び込んできたのは、四肢に氷を纏った大きな獣だった。美しい銀色の毛並みを持つ狼がノルガドの身体を押し倒し、その首筋に牙を立てんとあぎとを剥いている。
風の塊を叩きつけられる寸前で狼がノルガドから離れ、その足元にめがけて光を纏った空気の渦を放った。それは瞬く間に氷となり、竜王の動きを凍らせるべく次々と繰り出される。
室内に、氷の花が舞う。
あまりに美しいその光景を、シエラは唖然としたまま見つめていた。
「貴様ッ、どうやってあの檻を!」
猛るノルガドの叫びに、狼は応えない。体勢を低くし、牙を剥いて唸りながら、ベッドに座るシエラを庇うようにノルガドに対峙している。
馬ほどもある大きさの狼は、太く逞しい脚の先に氷を纏っていた。光を反射する銀毛は氷の中で美しく輝き、荘厳さを感じさせる。氷を吐く狼など、普通の獣であるはずがない。魔気もなく、感じられるのは強い神気だ。
だとすれば、この狼は幻獣なのだろう。
――氷の狼。
酔ったノルガドが語った昔話を思い出し、シエラははっとした。創世神はこの地に竜と狼を生み出したと、彼はそう言っていたではないか。
理由も分からないまま、胸が騒ぐ。初めて見るはずのその生き物を見ていると、なぜか懐かしさに息が詰まりそうになった。愛おしさが込み上げてくる。
届くはずもないのに手を伸ばしかけ、全身を突き上げるような振動にバランスを崩し、シエラは前のめりにベッドに倒れ込んだ。
狼かノルガドがなにか攻撃を仕掛けたのかと思ったが、室内の状況は変わらない。大きく地面が揺れているのだ。彫刻が倒れ、氷が砕ける。長い地響きのあと、耳をつんざく咆哮が遠方から響き渡った。
途端に、信じられない気配が肌を刺す。
「なん、――ッ、魔気!?」
「竜の結界が破られた……? この気配、まさか」
血の気の失せた顔で割れた窓から飛び出したノルガドは、瞬時に姿を竜へと転じていた。強い風が室内を荒し、砕かれた氷が矢のように飛んでくる。咄嗟に両腕で顔を庇ったシエラだったが、そんな心配は無用だった。ベッドに飛び乗った大きな狼がその身を盾にし、すべての礫からシエラを庇っていたのだ。