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 魔物が頻繁に現れだした今、この世界に残された時間はあと僅かだ。
 それを自覚しているのは、幼い頃から徹底した教育を受けてきた聖職者のみ。
 シエラは胸元のロザリオを見下ろし、そっと息をついた。

「……随分と面倒な魔物のようだな。これならば、他の聖職者に任せた方がいいだろうに。……なにも知らない私に、一体なにができる?」

 かすかに怒気を孕んだエルクディアの表情は、一瞬にして色をなくした。――消した、と言った方が正しいかもしれない。
 俯くシエラの向こう側、階段の上にはセルラーシャが立っていた。
 畏縮するほどの緊迫感を感じて顔を上げたシエラは、エルクディアの視線を追って首をめぐらせる。
 金の双眸が彼女を捉えた瞬間、彼女は手すりに足を乗せて音もなく跳躍した。

「シエラ伏せろっ!」
「――っ!」

 シエラ目がけて飛び降りてくるセルラーシャの手には、小さな銀の短刀が握られている。
 逃げる余裕もなくぎゅうと目を瞑れば、すぐ耳元で風を切り裂くような音が聞こえた。次いでシエラの鼓膜を、ライナの驚いた声となにかが崩れ落ちる音が震わせる。

 視界に影が重なり、金属のぶつかり合う音が響いている。シエラはばくばくとうるさく音を立てる心臓を抱え、のろのろと瞼を押し上げた。
 くるくると短刀が回転しながら床を滑り、視界はエルクディアの背中で占領されている。鋭い舌打ちのあと、彼はセルラーシャに腕を差し伸べたまま――否、長剣を突きつけたまま――低く尋ねた。

「どういうつもりだ」

 一体なにが起きたのだろう。
 未だに思考回路が追いつかないシエラは、現状を知るためにエルクディアの背からそっと顔を覗かせる。
 彼女の瞳に映ったのは床一面に広がる『赤』と、そこに埋もれるようにして横たわるセルラーシャの姿だった。

 目の前で倒れこむセルラーシャに、シエラはなにが起こっているのか理解できなかった。
 床に広がった赤が彼女を包むように広がっている。守るようにして前に立つエルクディアの背からは、触れることさえためらわれる鋭い気が発せられていた。

「お前、一体なに、を……」

 途切れ途切れに発した問いに、ライナが一瞬だけ視線をこちらに向けた。彼女はその光景を見て瞠目したが、ルーンの小さな呻き声を聞いてすぐさま視線を彼へと戻す。
 休むことなく紡ぐ神言がやけに耳につく。
 なぜそのように冷静に対処できるのか、シエラには分からない。目の前で人が斬られた。そして、自分も斬られそうになった。
 それなのに、どうしてこうも平然としていられるのだろう。

 もはや言葉など思いつかず、シエラは縋るように腕を伸ばす。エルクディアの軍服を掴めば、彼は僅かに顔をこちらに向けた。
 暖かさの消えた新緑の双眸に、情けない顔をした自分が映っている。まるで非難するような己の瞳を見て、シエラは慌てて目を背けた。

「心配するな。……斬ってないから」
「え?」
「お前がそんな顔しないなら、斬ってたけどな」

 その台詞に一切の迷いも感じられない。言葉通り、エルクディアはセルラーシャに剣を向けることにためらいなどなかった。

 主君に仇なす者は誰であろうと斬り伏せる。――それが、騎士の仕事だ。

 まじまじとセルラーシャを見てみれば、広がっているのは血ではなく燃えるような赤毛だった。はらはらと散ったそれはあまりにも血と酷似していて、ほんの瞬き一つ分の間では見間違えるのも無理はない。
 ほっと胸につかえた息を吐き出したシエラの頭を、エルクディアが優しい手つきでそっと撫でる。見上げた彼の表情は、どこか悲しげだった。

 ぴくりと擦り切れた指先が床を掻いたのを見て、エルクディアが再び気を張り詰める。緩慢な動作で起き上がったセルラーシャに悠然と剣の切っ先を突きつけ、彼は冷ややかに見下ろした。
 苦しそうに咳をした彼女が首に手を当てる。細く赤い線が出来上がっているのがシエラからも確認でき、髪と一緒に皮一枚を斬られたのだと察した。
 今彼女の命があるのは、エルクディアが温情をかけたからに過ぎない。王都騎士団の総隊長を担う彼にとって、ただの小娘一人を無に還すくらい造作もないことなのだ。

「……どうして?」

 やけにはっきりとした声だった。
 セルラーシャは床に座り込んだまま、強い怨嗟の眼差しをシエラにぶつける。

「ねえ、どうして? なんで、その人を守るの!? みんなその人のせいなんでしょ? その人がいなきゃ、ルーンは無事だった! 神の後継者だからって大切にされて、守られて! 自分は、この世界を守る気なんてないくせに……っ。あなたなんか、いなきゃよかった!」

 耳に痛い大声でセルラーシャが叫ぶ。シエラはぐっと唇を噛み締めた。
 震えた体を悟られないようにエルクディアの背に隠れかけ、慌ててその行動を自身で戒める。彼女の言葉は、鋭利な刃となって胸に突き刺さった。

 昔、セルラーシャが言った言葉と同じことを自分の口から吐き出したことがある。別に『シエラ・ディサイヤ』が特別なわけではない。大切なのはシエラ・ディサイヤという『器』に入った神の力なのだから、神の後継者は自分ではくても、その力さえあれば誰でもよかったのだ――と。
 シエラ自身の人格など関係なく、運命は巡り続ける。どう生きようと、神の後継者という値札に変更はない。

 誰もがシエラと一線を引き、「特別だから」「大切だから」といって丁重に扱ってきた。それがシエラにとっては重荷だった。
 世界を救うなどということが、小さな村で育っただけの娘に想像できるはずもない。
 煌びやかな王宮で日々を過ごし、いつ来るとも分からない『そのとき』を待っているということがどれほど苦痛か。

 世界を救うというその力が、大切な人を失う原因となったのだ。身近な人ひとり守れないというのに、どうやって世界が守れるのだろう。
 シエラには神の力というものが、それほど必要だとは思えなかった。むしろ、なんの役にも立たない災厄を呼ぶ力だと思っている。

 俯いたシエラの耳に、エルクディアの舌打ちが響く。小さく剣の鳴く音がして、彼はそれを構え直していた。

「ライナ、これはどう処理すればいい? ――事実上、大罪だ」
「……ひとまず、剣を収めて下さい」

 深いため息と同時にライナが腰を上げる。汗の珠が浮いた額を近くに置いていた布で拭った彼女は、冷ややかな眼差しをセルラーシャに向けた。
 それは確かにセルラーシャに向けられているのに、シエラはなぜだか自分に向けられたような気がして息を呑む。
 セルラーシャのすぐ前に立った彼女は、後ろで短く括っていた銀髪をするりとほどいた。

「どういうつもりか、説明していただきましょうか」
「……私は、悪くない。なんでその人ばっかり庇うの? ライナさんも、騎士様もおかしいよ! みんな、酷い……」
「でしたら、シエラを手にかけようとした貴方は酷くないとでも?」

 紅茶色の瞳は怒りに染まり、微塵の優しさも感じられなかった。普段のライナの穏やかさはすっかり鳴りを潜め、静かな気迫が店内に満ち始めている。
 天井に響く彼女の靴音は、一瞬すべての音を奪ったかのような錯覚を与えた。

「アスラナ王国準一級宮廷神官、ライナ・メイデン。……その代わりは、いくらでもいます。そこにいるエルクディアもまた同じ。優秀な神官や騎士は、わたし達だけではありません。ですがシエラは――神の後継者の代わりは、世界中のどこを探しても存在しません。唯一無二の存在、それがシエラです」

 そこでライナは一旦言葉を区切った。今度はしっかりとシエラにも目が向けられる。

「貴方が今しようとしたことは、この世界を壊そうとしたことと同じです。貴方の手で、この世界に住むすべての生物を殺そうとした。それが、正しいと思いますか?」
「それ、は……!」
「それから、シエラ。わたしには彼女が言ったように、貴方からなにも感じることができません。……確かに、残酷かもしれません。受け入れろというのが、無茶なことなのかもしれません」



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