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 だがしかし、隣にいることが当たり前だったその人は、もうここに存在しない。
 朝、どれほど水汲みに手間取ったところで、あの人はもう手伝ってはくれない。一緒に買い物をして、一緒に夕食を食べて、些細なことで言い争った日常は、もう返ってはこない。
 まるでガラスが砕けるかのように、セルラーシャの中で心の均衡が音を立てて崩れていく。まったく生気の宿っていない瞳から、つうと透明な雫が頬を伝い落ちた。
 それを拭おうともせず、彼女は髪が乱れるのも構わずに部屋の隅へ走る。

 置いてあった小物入れの引き出しを半ば抉じ開けるように乱暴に開け、あまり大きくはない引き出しをためらいなくひっくり返した。
 ばらばらと大小様々なものが落ちていく。色の変わった押し花のしおり、古ぼけた懐中時計、匂い袋や玩具の首飾り。
 宝物のように大事に扱っていたそれらを無造作に払い除け、彼女は木製の筒のようなものに手を伸ばした。
 ぐっと力を入れて左右に分かつと、鋭利な刃物が顔を出す。刀身に映った己の姿をじっと眺め、視線を落とした。

「私は……悪く、ない」

 その場にしゃがみ込み、胸元に入れた赤い小石を服の上から握る。取り落とさないよう慎重に取り出すと、石は光を受けて僅かに輝きを見せる。


 ――そうだよ、君はなんにも悪くない。


 どこからかそんな声が聞こえたような気がして、セルラーシャは頷いた。やけに明るい声は笑いながら言う。

 ――悪いのは全部あの女。君が恨むのも当然なんだよ、セルラーシャ。だってそうでしょう? あの女がいなきゃ、ルーンは死ななかったんだから。

「悪いのは、全部、あの人…………」

 ――その通りだよ、セルラーシャ。だからさ、ほら。あの女も同じ目に合わせてごらん……?

 もしかしたらその声は、己の内なる声なのかもしれない。しかし今のセルラーシャに思考能力はなく、ただただ声に導かれるようにして立ち上がることしかできなかった。
 おぼつかない足取りで部屋を出れば、階下から小さく声が昇ってくる。
 単なる店の客ではない。中性的な声は、神の後継者のものだった。
 セルラーシャは無意識のうちに音を殺す。

『――面倒……だな。……ば、…………他の……に任せ……いいだろうに。……私に……ができる?』

 途切れ途切れに聞こえた台詞を引き金に、セルラーシャは階段の手すりに足を掛けた。


+ + +



 血で赤黒く染まってしまったシャツを、苦々しげにエルクディアが見つめている。
 長椅子で作った簡易的な寝台に横たえられた青年の傍では、ライナが膝をついて必死に何事かを呟いていた。
 ライナが聖水を肩から胸部にかけての傷口に振り掛けると、深く抉れたそこはじゅっと焼け石に水をかけたような音がした。

 荒く浅い呼吸を繰り返すルーンは、微塵の油断も許されない状況下にあった。あと五分でも発見が遅れていれば、おそらく帰らぬ人となっていただろう。
 シエラは闇の中で見た光景を思い出し、口に手を当てた。
 鋭い爪で引き裂かれた肢体は、糸の切れた人形のように地面に倒れこんでいた。むせ返るような血臭が辺りに立ち込め、嗅覚を奪われた感覚が体に染み付いている。

 血溜まりの中に沈んでいたルーンを見つけたのは、血のにおいに敏感なエルクディアだった。魔気を辿る途中に倒れているルーンを発見し、その場でライナが応急手当をして穢れを祓った。
 魔物による傷のため、神官の法術によって止血は十分に可能だ。だが、彼を見つけたときにはもう既に大量の血液を失っている状態だった。
 ひとまず店へ担ぎ込む必要がある。そう判断したエルクディアが彼を抱えようとしたとき、シエラは淡々と告げたのだ。

『魔物とセルラーシャの気配がする』

 ――と。その言葉を受けてライナはシエラの手を引いて走り、エルクディアにルーンを任せて闇を駆けた。
 ラヴァリルは銃を構えた状態で、シエラ達の背後を守るように一定の間隔を開けてついてくる。
 セルラーシャは魔気の最も濃い地点で気を失っていた。彼女の安否を確かめるために首に手を添えたライナの顔が青ざめたとき、シエラはその目にはっきりと赤黒い液体が付着しているのを見た。だがそれは彼女のものではなかったらしく、半ば安堵しながらこの店まで運んできたのだ。
 そして夜通しライナがルーンの治療に当たり、ラヴァリルは明け方近くに城へ状況を報告しに戻っている。

「シエラ、少し休め。寝てないだろ」

 毛布を肩に掛けたままぼんやりとルーンを見つめていたシエラに、エルクディアがそっと声をかけてきた。
 しかし彼女はそのまま生返事をする。

「……なぜ、あの男だったのだろうな。『神の後継者』は私だろう。ならば、なぜ――」
「――それ以上言うと怒るぞ。俺も、ライナも」

 血の滲む包帯を取り替えるライナの手が一瞬止まったのを、シエラは見逃さなかった。
 低くなったエルクディアの声が、少なからず怒気を孕んだことにも気づいている。悲運を嘆き、己を責めるだけの『お姫様』は必要ない。
 言外にそう言われているのだろうが、簡単に気持ちの切り替えができるほどシエラは大人ではなかった。

 今まで彼女はずっと、知らない間に守られていた。彼女自身とその周りに被害が少なかったのは、リーディング村が強力な結界――それこそ、アスラナ城を守護しているのと同じくらいの――によって守られていたおかげなのだ。
 ゆえに村に魔物が襲ってくる心配はまずなかった。
 だからこそ、シエラはよく理解していない。自分の力の強さも、その危険さも。諸刃の剣がどれほど恐ろしいものか、彼女は知らない。
 守られていたという点では、今よりも村にいたときの方が大きい。今は身を守ってくれる完全な結界などないし、魔物だって神気につられて寄ってくる。危険がシエラ自身に降りかかってくるのだ。

 彼女を敵視するのは、悲しいことに魔物だけではない。聖職者そのものに恨みを抱く者、その利用価値に目をつけて悪用しようとする者――人間にも、『神の後継者』を脅かす者は存在する。そのような人間から守るため、エルクディアに護衛が任された。
 なれど善人も悪人も含めて、世界を守るのはシエラなのである。

 伝説によれば、この世界は千年に一度滅びを迎えると言われている。
 世界を守護している最高神の力がおよそ千年で弱まり、神の守護が失われかけた大地を魔物が貪り尽くしていく。
 神によって封じられていた魔物は次々と目覚め、闇から姿を現す。そしてやがて、この世界は魔物で埋め尽くされるのだ。

 それを防ぐために聖職者が生まれる。だが神の加護がなくなってしまえば、彼らは意味を成さない。
 祓魔の力も癒しの力もすべて失い、徒人と成り果てる。当然、魔導師だけでは手に負えないだろう。
 そうなってしまえば、もう人間は滅びるより他にない。人類と、そして神の敗北だ。
 世界には魔物がはびこり、闇の国を築き上げるだろう。しかし世界は、それを受け入れない。

 そうなる前に、脆弱な神は最後の力を振り絞り、世界中に根付く魔物を一掃しようとする。
 ――大地は割れ、山は崩れ、川は逆流し、すべてが荒れ狂う海の中に沈む。

 それが『滅び』だ。
 魔物は消滅するが、世界の崩壊も同時に訪れる。生物は再び海から生まれ、もう一度新たに進化を遂げていくのだという。繁栄と衰退を繰り返し、ある生物が人となり、また文化を創り上げる。
 新たな世界に新たな神が生まれるが、その力が弱まった頃にまた魔物が現れだし、世界は警鐘を鳴らし始める。

 そう、すべては同じことの繰り返しだ。

 けれどそれを食い止めるために、神は己の後継者を人の子に定める。
 築き上げたものを無に返さないよう、世界を崩さないよう、神の力をもってこの世界を引き継ぐために。



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