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 シエラ達と少し距離を開けて立っていたウィンガルドの群青の瞳が光ったかと思えば、彼の周りに薄黄緑の空気の奔流が目に見えた。ぽうっと夜光虫のように浮かび上がった光の珠が無数に辺りを舞い、幻想的な風景を作り出す。
 木々から鳥が一斉に飛び立ち、一瞬空が翳る。舞い落ちてきた木の葉が地面にくちづけるよりも早く、バスィールがシエラの腰を抱いた。

「う、わっ!」

 ゴォッと唸りを上げて、空気の塊が身体を包む。髪も服も、嵐の最中に立たされたように暴れ狂い、あまりの激しさに目を開けていることもできない。悲鳴すら掻き消す風の中、足裏が地面から離れたのを感じた。
 身体が浮上する。バスィールの支えがあるおかげで前後不覚になることはなかったが、シエラ一人であれば濁流に呑まれた小枝さながらにもみくちゃにされていただろう。
 やっとの思いで瞼を抉じ開けた先に、全身から淡く光を放つウィンガルドの姿が見えた。ルチアが浮き上がって逆さになり、足先が空を指している。
 人の形をした竜が、突き出した腕の先を軽く上下させた。手首を返したその所作を受けて、より一層強い風が下から吹き上げてくる。

「っ……!」
「姫神様、お手を。どうか、離れませんよう」

 耳元で囁くバスィールの身体にしがみつくのが精一杯で、ライナ達の様子を気にする余裕などこれっぽっちもなかった。満足に呼吸することすら困難だ。フォルクハルトの罵声が風に紛れて聞こえたような気もするが、それすら定かではない。
 一瞬か、それとも数分か。轟々と凄まじい音が鳴り響く中、身体が上へ上へと押し上げられていく。足裏にはなにもなく、風に身を委ねる不安感に胃の腑がきゅっと竦み上がった。

「姫神様、ご無事ですか」

 手の色が変わるほど強くバスィールにしがみついていたシエラは、そう声をかけられるまで風の音が止んでいることに気がつかなかった。恐る恐る目を開け、視界が安定していることを悟ってゆっくりとバスィールから離れる。彼の僧衣はあちこち乱れ、逞しい太腿に張りつく黒い下履きが垣間見えるほどだった。
 バスィールから手を離した途端、シエラの膝はあっさりと砕けた。あまりのことに腰が抜ける。何度も無茶をしでかした覚えはあるが、身一つで雲の上まで飛ばされたのはさすがに初めてだ。
 ぼさぼさになった頭を整えることも忘れ、油の切れた仕掛け人形さながらにぎこちなく辺りを見回す。シエラと同じように地べたに座り込んだライナが、今まで見たこともないほど髪を乱して項垂れていた。その顔からは完全に血の気が引き、唇は紫に染まっている。

「なんとまぁ、強引な……。さすがにこれは驚いた」
「鳥に運ばれた方がまだマシだ……おえ、酔った……」
「ルチアもー……。ぐるんぐるん回ってたから、目が回っちゃったよう」

 どうやら彼らは風の奔流に弄ばれ、身体の安定性を保てなかったらしい。抜群の運動神経を持っている彼らでさえそうなのだから、ライナが一言も発せられない状況にあるのも納得だ。蹲って口元を押さえる華奢な神官の背中をさすってやるべく、シエラは這うように移動した。
 独特の気配と共に、ウィンガルドが僅かな段差を飛び越えた程度の軽やかさで崖上に現れる。眼下には雲海が広がっているというのに、風竜にとってはこの程度の高さはなんてことないらしい。
 それもそうかと、シエラはぐったりしながら納得しつつ、ライナの背中を優しくさすってやった。背中の空いた服は編み上げになっているので、透けるほど薄い羽織越しでも十分に素肌の熱が伝わってくる。

「この程度でその体たらくか。ヒトの脆さはいっそ不愉快だな」
「通常、人間は身一つで空を飛ぶことはない。適応できぬのも道理であろう。そなたら風竜が、海中で長く過ごせぬのと同じこと」

 それまでウィンガルドとは言葉を交わしていなかったバスィールが、静かにそう告げた。銀の泉に紫に光る星を一粒落とした瞳がウィンガルドを捉えると、風竜は短く舌を打った。
 誰よりも早く身なりを整えていたオリヴィニスの高僧は、シエラ達と同じ行程を踏んでここまで来たとは思えないほど平然としている。
 ライナの吐き気が収まった頃に宮殿を目指そうと言いかけた矢先、目の前にふっと影が降りてきた。翳りの中に殺気が生まれ、首筋の後ろが一気に粟立っていく。
 シエラの目の前の地面が深く抉られるのと、鈍く、それでいて鋭く響く矛盾した轟音が鼓膜を劈くのと同時だった。


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