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「――ふふっ、竜の国だよ。聞くまでもなくね。あ、それとフェリクス、女性には優しくしなきゃ嫌われちゃうよ? もう遅いかもしれないけどっ」

 突如投げられた穏やかな声に、反射的に剣を抜きかけたサイラスが瞬時にその手を戒めるのをユーリは見た。
 あちこちから突き刺さる殺気混じりの視線をものともせず、九番隊スコーピオウの隊長アリス・ファルがにこやかに微笑んでいる。長く伸ばされた赤褐色の髪を揺らす彼を、この場に呼んだ覚えはない。
 いくら騒然としていたとはいえ、扉が開いた気配も感じなかった。ユーリだけならまだしも、ここにはオリヴィエやフェリクスらもいたというのに、彼らとてアリスがいつの間に接近していたのか分からなかったらしい。
 それだけではなかった。先ほどまでギャアギャアとカラスのように喚き立てていた高官達の声が、ぴたりと止んでいるのだ。改めて室内を見回し、アリスを除く誰もが声を失った。
 机に突っ伏すようにして、口喧しい男達がすやすやと寝息を立てている。

「聞かれたらまずいかと思って、眠ってもらっちゃったにゃー」
「スカー!? ちょっと、アナタこの子になにしっ、」
「猫ちゃんにも眠ってもらってるだけ。幻獣にも薬って効くんだね。そのうち起きるだろうから、返すよ」

 人形のようにくたりと全身を弛緩させた黒猫の前足を何度か振ったアリスが、それこそ物でも扱うようにレイニーへと投げ渡した。慌てて両手を伸ばして受け止めたレイニーに、彼は柔らかく微笑んで机の上に軽く腰かけた。
 その気になれば傾国の美姫にさえ化ける青年のすぐ傍らで、ギーツェン伯爵がいびきをかいている。
 異様な光景だった。よく見れば、眠る彼らの首筋には極細の短い針が刺さっているのが分かっただろう。どうやらアリスは、針の先に薬を塗っておいたらしい。
 しかし、たった一人で彼ら全員に針を刺してのけたのか。音もなく忍び寄る様を想像し、ユーリは法衣の下で鳥肌が立つのを自覚した。

「アリスたいちょ、なにか心当たりでもあるんですか?」
「なかったらここには来ない。私も暇じゃないんだから。言ってるでしょう? 彼らは竜の国に向かったんだよ」
「だったらそれはどこにあんだよ!?」
「岩と砂の大地。の、空の上」
「アリスっ!」

 フェリクスとオリヴィエの怒声がぴたりと重なり、アリスは子どもっぽい仕草で両耳を塞いで、わざとらしく肩を落とした。叱られて拗ねる子どもの表情で、固くこわばるレイニーを上目遣いに見やる。
 これほど盛大に騒いだところで、高官達は目を覚まさない。

「嘘なんて吐いてないって言ってやってよ、魔女さん。この二人、とっても怖いんだ」
「アナタ、なんでそれを……。王さまから聞いたの?」
「私はなにも言っていないよ。――彼は“サソリ”だ。その気になれば、なんでも調べられる」

 なんの話だとフェリクス達が苛立ちを露わにさせたが、アリスは笑うばかりで答えようとはしなかった。無邪気な子どもそのものだが、彼がそんなに可愛いものであるはずがない。
 竜の国の所在は、限られた人間しか知らないはずだった。その中に、本来ならばアリスは含まれていない。ましてや、彼がオリヴィニスの様子など知りえないはずだった。
 九番隊スコーピオウをもってしても彼の地には踏み入れないと、他ならぬ彼自身がそう言っていたのだ。

「……いいわ、もう余計なことは考えない。こうなったのはアタシの責任でもある。スカーと一緒に竜の国に行って、ボウヤを助け出してくる。悪いけれど、途中まで馬を貸してくれない?」
「んー。いくら魔女とはいえ、あのオリヴィニスに向かうのは難しいんじゃない?」
「アタシは竜の国へ行くのよ。オリヴィニスは関係ない」

 レイニーは即座にそう訂正したが、察しのいい騎士達は、それだけで竜の国とオリヴィニスの関係に気がついたらしい。三人とも目を瞠り、声を失ったままアリスを見た。

「そう? ならいいけど。せいぜい頑張って、囚われのお姫様を助けてきてね? あれでも一応、私達には大切な存在だから」
「俺も行く」
「片腕の君になにができるっていうの、フェリクス。死んじゃうだけだからやめときなって」
「ンだと、このっ」
「落ち着け! ――身内で揉めるな、見苦しい」

 オリヴィエに制されてもなお掴みかかろうとするフェリクスを、サイラスが腕づくで止めていた。凄まじい怒気を向けられようが、アリスの表情は変わらない。
 なにか恐ろしいものを見るような目でレイニーは彼をしばらく見つめ、やがて胸に溜まった空気をすべて吐き切るような深い溜息を吐いた。

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