4 [ 59/682 ]

 窓から差し込む月光に照らされ、寝台の上の女が小さく寝返りを打つ。波打つ金髪が扇状に広がり、時折星のようにきらきらと輝きを放っている。
 上品な香水の香りを楽しみつつ、ユーリは素肌に上着だけを羽織ってグラスを傾けた。
 葡萄酒の香りと酸味が抜けた頃、青年王がゆっくりと瞼を押し上げた。
 気だるそうな青海色の双眸が月を見上げ、射抜くようにじいと見つめている。僅かに震えた外気に苦笑して、もう一口葡萄酒を流し込んだ。
 寝台の揺れを感じ取ったのか、女がうっすらと目を開ける。眠たそうではあるが、ひどく妖艶な眼差しを受けて青年王は口元に淡い微笑を浮かべた。
 途端に女の表情が和らぐ。

「どうなさいましたの、陛下」
「いいや、なにも。月見でもしようと思ってね」
「あら。満月はあすにございましてよ。それより……お眠りになりませんこと?」

 しなやかな指先がつ、と背中をなぞる。僅かに見え隠れする白い柔肌を目にし、ユーリは内心の呆れを巧妙に隠す笑みを見せた。
 背を辿る手を捕らえて口元まで持ち上げれば、女の目が期待するようにきらりと輝く。闇夜でも赤く熟れた唇が、ほんの少し開かれた。そこから女の甘い吐息が漏れると同時、青年王が指先に唇をそっと寄せる。葡萄酒で潤いを帯びたそれは冷たく、女はぴくりと指先を震わせた。
 一拍と置かずに、女の指先が青年王の唇の輪郭をなぞる。扇情的な仕草に半ば感心していると、女が縋るようにもう片方の腕を伸ばしてきた。青年王はグラスを手にしたまま、応えるように体を折り曲げる。
 顔の横につかれた腕に満足したのか、女は覆い被さる青年王の首に手を回してぐいと引き寄せた。降ってくる銀髪が顔に当たるとくすぐったそうに身を捩り、そのときばかりは少女のような声を上げる。
 戯れに一つ口付けてやれば、女はすぐさま少女を捨てた。

「ねえ、陛下……」
「ん?」

 女がなにを言おうとしているのか、分からないわけではない。
 
「お慕いしておりますわ、誰よりも」
「ああそうだね、嬉しいよ」

 極上の笑みと共に告げられたその言葉に、女は少し不満そうに唇を尖らせた。そのまま奪うように口付けられるが、大して珍しい事態でもないためユーリは軽い気持ちでそれを受け入れた。
 そこに、女と同じ比重の気持ちは存在しない。どんな女と気持ちを天秤にかけても、きっと青年王の方が重くなることはない。いつだって恋い慕うのは女の方で、青年王が本気になる相手などどこにもいやしないのだ。

 それを分かっていても、女は求める。
 いつか青年王が振り向くのではないかと、その心を得ることができるのではないかと、でき得る限りの策を練ってやってくる。したたかで美しく、滑稽な様が青年王は気に入っていた。
 それを口にすれば、側近ともいえる騎士と神官は烈火のごとく怒っていたけれど。

「眠れないよ。……あの子達が、頑張っている間はね」

 流れに翻弄され、困惑し、走り回っていることだろう間は、ずっと。
 なにもかもを不十分なままで放り出した神の後継者は、今頃どうしているだろうか。
 先ほど感じた魔気の強さ、そして荒さの意味に彼女達は気づいているだろうか。
 巧妙に仕組まれた向こう方の策略に嵌っていないことだけを願うが――この様子であればそれは叶わない。
 だがそれは致し方ないことだ。相手がこちらより一枚上手だっただけのこと。ならば、あとでそれを上回ればいい。

「もう……陛下、わたくしのこと、どうお思いですの?」
「それはもちろん、ちゃんと好きだよ。だからおやすみ、緑柱の姫君」

 瞳の色に喩えた異称で睦言を囁き、不満を漏らしかける女の口をすぐさま塞いだ。
 その一言が国を動かす青年王の唇は、いとも容易く残酷な嘘を紡ぎだす。


+ + +


 
 昔、大好きな祖母に語ってもらったことがある。
 この国の昔話を。世界がどうして滅びるのかを。神の後継者が、何故現れるのかを。
 そしてその神の後継者が、どれほどつらい選択を強いられるのかを。
 だけどそれはただの伝説で、現実のものとは思えなくて、セルラーシャはすっかり内容を忘れてしまっていたのだけれど。


 目を覚ませば、そこには見慣れた天井が広がっていた。眠れないときによく数えた染みは間違えようがない。毛布も枕も、すべて自分のものだ。
 窓から差し込む朝日は普段と同じで、鳥のさえずりも耳に心地よい。窓辺に飾った花と、寝台の近くに無造作に放られた本を見て、セルラーシャはここが自室なのだと確信した。

 それにしても、随分と嫌な夢を見ていた。まさに悪夢としか言いようのない夢だ。天井を見上げながら息をつく。
 随分とおぞましい夢だった。肌に突き刺さる風の冷たさや、暗闇に煌く紅玉の瞳。人ではない、二匹の恐ろしい獣と轟く咆哮。思い出しただけでも寒気がする恐怖と不安。
 セルラーシャはしばらくぼんやりとしていたが、やがて身を起こそうと両腕を体の脇についた。その拍子に、手のひらにぴりりとした痛みが走る。上体を壁に預け、彼女は自らの手のひらを見つめて瞠目した。

「夢じゃ……ない」

 店の手伝いをしてできた肉刺やあかぎれとは違う真新しい擦り傷が、無数に手のひらについている。地面に倒れこんだときのようなその傷に、セルラーシャは戦慄した。
 かすかな痛みが、残酷なほど急速に意識を現実へと引き戻す。どくどくと心臓が早鐘を打ち始めた。

 冷たくなっていく指先をぎゅうと握り締めた彼女は、ふと爪の間が黒く染まっていることに気がつく。
 爪の間だけではない。それは指先にもこびり付いている。

「…………血?」

 しかし、手のひらの擦り傷以外に負傷している様子はない。汚れた指先も、爪の間も、痛みは一切感じなかった。
 薄く皮が破れただけの擦り傷がしくしくと痛むのだから、これだけはっきりと血が出ていて痛みを訴えない訳がない。
 セルラーシャの記憶に、鉄のにおいが蘇る。自分が怪我をしていないのならば、この血を流した人物は一人しか思い当たらない。

「ルーン……ッ」

 脳裏に浮かんだのは、血まみれの青年。
 焦げ茶色の髪と瞳が優しい、大地のような人。いつも傍にいて、笑みを絶やさなかった兄のような人。どんなときも支えてくれて、決して道を間違わないようにと導いてくれた人。
 彼がどんな人かと問われたら、何度だってそう答える。



[*prev] [next#]
しおりを挟む


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -