19 [ 618/682 ]

 引き返すべきかもしれない。
 ここまで来ておきながら、そんなことを思った。
 こんな姿は、きっと見られたくはないはずだ。
 現に今、フェリクスは、これほどまでに接近しているエルクディアの気配に気づかない。それほど憤っているのだ。
 その激高の理由に想像がつくからこそ、そっと引き返そうとした矢先、ぎらついた眼が射抜くようにエルクディアを捉えた。その一瞬で、フェリクスの顔からすとんと感情が抜け落ち、表情が消える。
 しまった、と思った。最後の最後で油断をした。さっさと引き返しておくべきだったとの後悔が胸を満たす。

「あー……、……どうした、ボウズ。なにか用か」
「その、なんていうか……具合はどうかと思って。医務室から逃げ出したって聞いたから」
「誰だ、ンなこと言いやがったの。もう大丈夫だから出てきたっつーのに。……つうか、あー、その、なんだ。せっかく顔見に来てもらったっつーのに悪かったな、散らかってて」
「いや、それは別に」

 自分よりも年かさの男の痛々しい笑みにたじろいで、上手い言葉が思いつかない。こういうとき、自然と言葉を返せるようになれなければ、国を代表する騎士としてはまだまだだ。
 そう思うのに、ぐちゃぐちゃになった室内からフェリクスの心情が透けて見え、言葉は一向に出てこなかった。
 先に動いたのはフェリクスだ。彼は片手で上着を肩に掛け、なんてことのないような笑みでエルクディアをクラウディオ平原へと誘った。二の郭どころか、城門を出ると聞いてさすがに眉が寄る。しかしフェリクスは聞く耳を持たず、「おいてくぞー」と言い置いてさっさと部屋を出て行ってしまった。
 まるで、一刻も早く荒れた部屋から逃げ出したいとでも言うように。



 ゆっくりとクラウディオ平原を進む。
 貴婦人達の散歩程度の並足で馬を歩ませ、春めいたアスラナの空気を胸いっぱいに吸い込んだ。青い草の匂いが、鼻から身体中を駆け巡る。凍てついた冬の空気は、もうとっくにどこか山の彼方へ消えてしまっていた。
 血の臭いに気が触れかけていたフェリクスの愛馬も、しばらく休むことによって平静を取り戻したらしい。久しぶりに背に乗せる主の重みに、心なしか嬉しそうな様子だった。その隣を歩くニコラは、このゆっくりとした足並みが物足りないのか、時折物言いたげに鼻を鳴らしている。
 振り返ると、城が少し小さく見えた。どうやら思いのほか馬を歩かせていたらしい。

「情けねェトコ見せて悪かったな、ボウズ」
「いや。……傷はどうだ。まだ痛むか?」
「いんや。傷口はもう綺麗に塞がってっから、なんともねェよ。さすがはウアリだ、スパッと落としてくれたみてェだな」

 肩口から僅かに残る腕の名残に右手を添え、フェリクスは薄く笑った。

「ただなぁ……。もうありもしねェ傷が、痛むんだわ。この辺が。触ったところでなんもねェっつーのに、不思議だよな」

 幻肢痛。戦で手足を失った兵士にたびたび起こる症状だ。あるはずのないつま先が痛くてしょうがないと夜中に泣き叫ぶ兵士の声を、エルクディアとて聞いたことがある。麻酔もなにも聞かず、治療は困難な病だと。
 戦場に立つ身ゆえ、死は常に身近にあった。一歩――いや、半歩でも道を踏み外せば、死神が鎌を閃かせて待っているような世界に立っている。だが、それでいて、死を掻い潜ってもたらされるものに関しては、どこか遠い世界のように感じていた。
 生か死か、その両極しかエルクディアの中にはなかった。

「ま、生きてるだけありがたいっつー話だ」
「あの怪我でここまで回復したんだ、並の人間じゃない。さすがはフェリクスだな」
「そりゃどーも。まあでも、『腕失くしました』じゃ洒落になんねェからな。思った以上に不便だわ、コレ。お前も気をつけろよ」
「……ああ、分かってる」

 命は助かった。だが、それで「よかった」と言い切れるほど、この世界は甘くはない。
 フェリクスが失ったものはあまりにも大きい。これがあの勝利の代償だというのなら、神の采配はあまりに厳しいとしかいえなかった。

「幸いアスラナは、負傷者の手当ても厚い。それに俺なんざ隊長やってっから、この先働かなくても見舞い金で食っていけんだろ。――だからエルク、変に迷うな。お前は、総隊長としてちゃーんと判断すりゃあいい。妙な情を抱くなよ」
「なんの話だ」

 軽く笑ってそんなことを言い出したかと思ったら、突然フェリクスが真顔になった。その変化に嫌な予感を覚え、エルクディアは思わず馬を止めていた。倣うようにフェリクスの愛馬が足を止める。主人を気遣い、労わるような優しい静止の仕方だった。
 疲れを帯びた琥珀の瞳が、からかうようにわざとらしく大きくなる。


[*prev] [next#]
しおりを挟む


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -