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 またしても質問は無に返される。目の前の子供と同じ声が闇の向こうから聞こえたと脳が判断を下すよりも先に、もう一人子供が現れた。
 闇に光る紅玉の瞳は同じだが、新しく現れた少年の髪は濃い灰色だった。
 月明かりのもとでは確認しにくいが、漆黒ではないはずだ。髪色を除けば、並んだ二人は鏡を合わせたかのように瓜二つである。
 セルラーシャの本能が警鐘を鳴らす。

 ――イェランと呼ばれた少年が歩いてここまでやってきたところを、見ていない。
 気がついたら目の前にいた。それはまさに瞬間移動という陳腐な言葉が似合うものだ。逃げろと脳が叫んでいるのにも関わらず、体が恐怖で固まって身動き一つ取れない。
 子供の腕一つ振り払うことができず、セルラーシャはひくりと喉を鳴らした。

「髪、それは赤。後継者のは蒼だよ。それに、一緒にいた男、騎士じゃなかった」

 舌足らずな口調は子供のそれなのに、紡がれる言葉はどこか不気味だ。言い終わるとイェランはぺろりと指――いや、あれは長い爪だ――を舐め、にぃと口の端を持ち上げて妖しく嗤う。
 これが子供の笑みでないことは、セルラーシャでも理解できた。
 少年の指に伝う液体は、闇の中ではただの黒いなにかに過ぎない。しかし不安を煽るには十分すぎるものだった。
 今目の前の少年は、なんと言っただろうか。ああそうだ、『一緒にいた男』と言った。セルラーシャは自問する。

 どうしてルーンは、未だ追いつかないのだろう――と。

 彼の足ならば、店を出てすぐにでも追いついたはずだ。それなのにいつまで経っても彼は現れず、その代わりに二人の子供が姿を見せた。
 それが一体なにを意味するのか、彼女の頭は考えることを拒絶した。
 心臓を冷え切った手で掴まれたような錯覚を覚え、みっともなく膝が笑っていることに気づく。
 あ、と簡単な言葉さえ漏らす暇もなく気が遠くなるのを感じ、彼女はぺたりとその場に座り込んだ。二対の双眸が蔑むように赤毛に向けられる。

 彼らの髪や顔立ちは月明かりでかろうじて分かる程度なのに、なぜこうも瞳の色ははっきりしているのだろう。その問いへの答えはすぐに出た。
 血のように赤い紅玉の瞳は、自ら光を放っているのだ。暗闇の中、光を受けて輝く獣のそれと同じように。

「なに……? 一体、なんなの? ルーンは、どこ」
「さあ。どこだろね」
「どこだろね」
「っ、離し、て!」

 目頭がじわりと熱くなった。ただただ恐怖だけが全身を駆け巡る。声は震え、半分は嗚咽と化していた。
 セルラーシャの手首を掴んでいたイェスタは、にこりと微笑んでその手を離す。
 解放された右腕を左手で包み、胸の前で掻き抱いた。ぎゅっと身を縮め、早く時間と彼らが過ぎ去ってくれることを願う。
 セルラーシャ自身が自力でこの場を立ち去ることはすでに不可能だった。

 無意識のうちに硬く握っていた右手をのろのろと開くと、中から深紅の花びらが零れ落ちてくる。それを目で追った二人の子供が、くすりと笑って顔を見合わせた。

「ねえイェスタ、どうする?」
「どうしようか、イェラン」
「後継者じゃないよ?」
「聖職者でもないよ?」
「じゃあ」
「どうしようか」

 同じ声、同じ顔が、不安を増徴させるがごとく歌うように言う。それはさながら呪詛のようで、セルラーシャは耳を塞ぎたくなる衝動に駆られた。
 漆黒の髪色をした少年――イェスタの方だ――が身を屈め、落ちた花びらを拾い上げた。もう大分時間が経っているのに生気溢れた瑞々しい花びらに、イェスタが満足そうな顔をする。

 後ずさったセルラーシャを見て、イェランが鋭い犬歯を見せて笑う。細い両腕が伸ばされ、なんの迷いもなく彼女の首へとかけられた。
 ぬるりとした感触が肌を這う。びくりと身を震わせた彼女に与えられたのは、恐怖からの解放でも自由でもなく、残虐な嘲笑だった。

「花びら一枚で騙された」
「まるでこれじゃ後継者」
「僕らを呼んだ鍵のひとつめ」
「こんなの、持ってるから」
「これがなかったら、あの男」
「死ななかったのに、ね」
「ざーんねん」「ざーんねん」

 最早セルラーシャにはどちらが喋っているのか、判別がつかなくなっていた。言っていることの半分も理解できなかったが、唯一引っかかった単語がある。

「死、って……?」

 首を絞めるわけでもなく、ただ軽く添えられた手がとても冷たく重い。いつでも命を奪えるのだと脅されているような気がして仕方がなかった。絶望や怖気、あらゆる不の感情がセルラーシャを支配する。
 焦点の定まらないうつろな瞳は、彼らの嗜虐心を煽るのに十分だった。
 イェランが少しでも手に力を込めれば、セルラーシャの頬を透明な雫がつうと滑り落ちていく。これがたまらない、とイェランが呟いた。

 イェスタの憫笑がセルラーシャに突き刺さる。掻き抱いた胸元に、小さな硬い感触があるのを感じてセルラーシャは涙で濡れた睫を震わせた。
 心を安らげてくれるはずの石は、縋るような彼女の思いを嘲るように沈黙している。それでも祈るように服の上から石を握り締めた。
 見咎めたイェスタの手が伸ばされるが、届く前に二人が同時に弾かれたように空を仰いだ。北の空――リロウの森の方角だ――をじっと眺めていた彼らは、やがて頬を不満そうに膨らませる。
 玩具を取り上げられた子供のような表情がこれほど不釣合いな『子供』を、セルラーシャは今までに見たことがない。

「呼んでるね、イェスタ」
「マスターはいつも勝手」
「折角楽しかったのに」
「そこまで後継者、来てるのに」
「今はまだ、駄目なんだって」
「仕方ないね」
「帰ろうか」
「帰ろう、イェラン」

 途端、ずんと重たい風が辺りに吹き抜け、砂塵が立ち込める。圧し掛かるそれは淀んだ空気で、耐え切れずにセルラーシャは前のめりに倒れ込んだ。
 支えを失った体は勢いよく地面にぶつかり、鼻先では鉄のようなにおいを感じる。
 起き上がることもできずに持ち上げた視線の先では、八本の細い獣の足が見えた。
 顔を僅かに上げれば、月明かりの下に漆黒と濃灰の狼が並んで立っている。――瞳は、血のように赤い。

『鍵ノフタツメ』
『ナァンダ?』

 滲む視界を瞬きで直したときにはもう、獣の姿は忽然と掻き消えていた。人間技ではないその力を目の当たりにし、セルラーシャは息を呑む。
 耳鳴りのように獣の咆哮が遠くで木霊し、それを打ち払うために彼女はぎゅっと胸元の小石を握り締める。
 未だ体の緊張は解けず、立ち上がるどころか息をすることさえつらい。足はそれこそ石のように重く、言うことを聞こうとしないのだ。痛みを訴えるまで乾いた喉を潤すのは自らの唾液のみで、嚥下したそれはやわらかい粘膜を切り裂くように胃へと流れていった。
 
「ルー、ン……!」

 どうか、どうか無事でいて。
 そんな願いと共に、セルラーシャの意識はぷっつりと途絶えた。



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