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「ほらみろ、嬢ちゃん。言ったろ? ――嬢ちゃんなら、片手で十分だって」

 そうだ。確かに彼は、そう言った。
 このことを予期していたわけでもあるまいに、そんなことを言っていた。

「だから心配すんな。もう大丈夫だからよ」

 春の日差しがフェリクスの笑顔を照らす。
 痩せたとはいえ、その身体はソランジュとは比べ物にならないほど逞しい。現に今、この身体を支える腕に弱々しさなどなく、いとも簡単にソランジュを持ち上げている。
 ――ああ、けれど。
 お決まりの無精髭すらすっかり綺麗にしてしまった頬に手を添え、ソランジュはその額に頬を擦り寄せた。気づかれないよう、そっと頭に唇を寄せて、ほんの一雫の涙を零す。

「……だいすきです、せんせい」

 正午を告げる鐘が鳴る。
 「またそれか」と困ったように呻くフェリクスの頭上に、柔らかくけぶるような青空が広がっている。飛び立つ白鳩が鐘の音に色を添え、吹き抜ける風が花を揺らして春の風を運んできた。
 ――どうせなら、両腕で強く抱き締めてほしかった。
 たった一度でいいから、壊れそうなほどきつく抱き締めてほしかった。
 痛みを感じるほど、息苦しいほど、強く掻き抱いてほしかった。
 熱が互いの間を行き来して、一つに溶けてしまいそうなほど。
 逃げ出すこともできないほど、強く、きつく、両の腕で。
 その願いは、もう二度と叶わない。


+ + +



 約束の夜。
 日中に発生した砂嵐の影響で、一歩進むたびにざりざりと音がする。暗闇の中を手燭も持たずに歩くタラーイェの後ろを追う者は、シエラとライナ、そしてフォルクハルトの三人だ。
 こっそりと食堂を抜け出したつもりだったのだが、どうやらそれが余計に悪目立ちしていたらしい。廊下に出てすぐフォルクハルトとヴィシャムに声をかけられ、大人しく洗いざらい白状したところ、ヴィシャムが残ってルチア達の面倒を見てくれることになった。万が一バスィールになにか聞かれたときでも、嘘を吐かずに真実を隠すことができるのは、確かにフォルクハルトよりも彼の方が適任だ。
 代わりにシエラ達の護衛としてフォルクハルトがついてきたのだが、愛想のない上に喧嘩っ早い彼を交渉の場に同行させて大丈夫なのかという心配が胸をよぎった。だからといって屋敷に戻れと言うわけにもいかず、シエラとライナは互いに顔を見合わせて、二人同時に祈るように一つ頷いたのだった。
 すぐそこに荒涼とした砂の大地が広がっているというのに、タラーイェに案内された場所は緑生い茂る森の中だ。背の高い木々の隙間から月明かりが零れ落ち、葉先に浮かぶ夜露に溶け込んで淡く輝いている。夜の森はどこか不気味さが伴うことが多いが、ここはそうではなかった。
 虫の声が涼やかだ。夜鳥の声が響き、足裏の感触が、固い砂から柔らかな土のものへと変わっていく。
 どこまで行くのだろう。シエラの背後から感じるフォルクハルトの気配が刺々しくなり始めた頃、一種独特の神気が肌を刺した。
 清廉で苛烈。だが、神の放つものとは明らかに異なるそれには、シエラにも多少覚えがある。
 鋭く風が動いたと感じた矢先、シエラとライナの眼前をフォルクハルトの背中が埋めていた。いつの間に前に出たのか、それすら分からない俊敏さだった。丸まった背中から、ゆらりと警戒の炎が立ち昇る。

「下がってろ」
「フォル、」
「動くなっつってんだよ!」
「大丈夫よ。――ウィン、連れてきたわ」

 タラーイェの声に応じるように、数歩先で暗闇が揺れた。なにかが着地する音がする。よく通る声が響くと同時に、その場に小さな光の珠がいくつも浮かび上がった。
 あまりに幻想的なその光景に、シエラは言葉を失った。見れば、ライナも同じように目を丸くさせている。淡い水色に発光する光の珠に照らされて、長躯がぼんやりと見えてくる。
 たとえ人の姿をしていても、肌に感じる神気は間違いなく竜のものだ。芝生のような鮮やかな黄緑色の髪に、群青の瞳。見上げる長身に、丸太のような腕。嬉しそうに駆け寄るタラーイェの姿がなければ、警戒を解くことはできなかったであろうその気迫。
 幼い少女を抱き上げた男は、手近に浮かんでいた光の珠の一つをシエラ達の方へと指で弾いて滑らせてきた。


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