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「わたくしの?」
「ええ。妃殿下はこの国で唯一の、たった一人の、陛下の奥方様です。アスラナで最も高貴な女性ですっ。この花離宮はとてもご立派ですし、妃殿下に相応しいと心から思いますが、本宮にお部屋のご用意が整わないのはおかしいと思います!」
緊張しながらも言い切った若い侍女は、そのことで勢いがついたらしい。きょとんと目を丸くさせるクレシャナに構わず、さらにまくし立ててくる。
「ご政務に励まれるのは大変喜ばしきことにございますが、もっと妃殿下とのお時間を大切にしていただきたく思うのです。今まで陛下がこちらでお泊りになられたことなど、片手で足りるほどではありませんか。妃殿下、妃殿下から陛下にお願いなさってはいかがですか?」
「お願い、ですか?」
「ええ。もう少しお相手してくださるよう妃殿下から申し上げれば、陛下もきっと分かってくださるはずです! なんと言っても、妃殿下は陛下に愛されておられるのですから!」
つきん。
小さな胸の痛みを誤魔化すように、クレシャナは苦く笑った。
夜の帳が下りた窓の外には闇が広がり、星々が瞬いている。か細い月の光に横顔を預け、王妃となった少女は偽りの誓約を思い出した。
「今はまだ、このアスラナが休まるときではないということなのでしょう。後継者さまも国外におられるのですから、なおのこと。わたくしは、お忙しい陛下のお心を少しでも癒せたらと思います」
「妃殿下……。……すみません、出すぎたことを申しました。お許しを」
「いいえ、気になさらないでください。お気遣い、とても嬉しく思います。――そうだ、よろしければお茶をいただけませんか? 心地よく眠れるようなものを」
「はいっ! すぐにご用意いたします。フィーネほどではありませんが、私もハーブティーを淹れるのは得意なんです」
気を取り直したように微笑んで、侍女はハーブティーを淹れに部屋を出ていった。
あまり大勢の人間に囲まれて生活するのは慣れないために、傍仕えの侍女は一度に多くて二人ほどしか置いていない。一人きりになった花離宮の自室で、クレシャナは窓辺にも持たれてほうっと息を吐いた。曇りなく磨かれたガラスが吐息の熱で白く変わり、美しい夜空をくすませてしまう。
それがまるで、自分の心のようだった。
侍女の言葉がよみがえる。
「妃殿下は陛下に愛されておられるのですから」あるはずもないその言葉に、クレシャナは苦笑しか返すことができなかった。そんなことはありえるはずがないと知っているからだ。
紙の上で夫婦の契りを交わしたあの夜以来、ユーリがクレシャナに触れてくることはない。柔らかく髪を梳かれることすら稀だった。
青年王は約束を守っているだけだ。クレシャナが拒むのならば指一本触れぬと言った、あの約束を。
あの夜が、互いの体温を感じながら眠る最初で最後の夜だった。
「……他になにを望むことがありましょう。ここに……。この地に来ることができただけでも、わたくしは幸せなのです」
声に出して言えば、一層の幸せを感じられると思っていた。それなのに、真冬のように冷たい風が胸を吹き抜けていく。
組み合わせた指を飾る古びた指輪が、あつらえられた綺麗なドレスとは酷く不釣り合いだ。それでもクレシャナは指輪を手放そうとはせず、頑ななまでに身に着けていた。
籠の鳥は、雲を恋うという。けれどクレシャナが求めたのは、青く澄み渡った空でも、そこに浮かぶ真っ白な雲でもなかった。
青空の下、どこまでも広がる青い海。深く透き通ったその色を恋いながら、偽りの王妃は指輪にそっと口づけた。
+ + +
貴方がなにを思い、なにを望み、なにを悔いているのか、私には分からないのです。
貴方が失ったものの重みを、私は想像することしかできない。
どうかお許しください。
貴方の痛みを分からぬまま、理解できぬまま、貴方の傍にいることを。
どうか、お許しください。
「先生、本当にもう起きて大丈夫なんですか?」
「だーいじょうぶだって。あのままウアリの顔見てる方が身体に悪ィ」
そう言って身支度を整えるフェリクスに、ソランジュは喜びよりも不安を覚えていた。治療のために着せていた簡単な前合わせの衣を脱ぎ捨てた彼は、用意されていた糊の効いたシャツに袖を通そうとして、一瞬動きを止めてしまったのだからなおさらだ。
春が訪れ空気は幾分か暖かくなっているものの、病み上がりの状態でいつまでも半裸でいては風邪を引いてしまうだろう。胸に突き刺さる痛みを覚えながらも手伝おうと手を伸ばしたソランジュに、フェリクスは残された片手でシャツを取って放り投げてきた。