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*第32話
美しいでしょう。
だってそこは、穢れなき場所。
心地良いでしょう。
だってそこは、かつて私が愛した場所。
千夜一夜の嘘
夜明けの山に光が降りそそぐ。昇る太陽よりもさらに高い場所で、無数の影が空を飾った。下方から照らされ、光を纏う雲の上に空の覇者が翼を広げる。
大きさ、色、鳴き声、そのどれもが様々な竜が、消えゆく夜を見送るように風を切っていた。
険しい山の頂に、一頭の竜が降り立った。濡れたように艶やかな鱗は、今にも空に溶けそうな爽やかな水色だ。他の竜に比べれば、身体に岩のような隆起もなく、全身がつるりと滑らかな流線型を描いている。水晶のように透き通った爪で地面を掻き、水色の竜は自らの“国”を眼下に見下ろした。
雲を貫くこの山々が、彼が治める竜の国だ。
ただの人の子ではここまで来ることも叶わない、まさに天上の地なのだ。
脳裏によぎった蒼い光を思い出し、竜は鼻先から冷えた空気を吐き出して雲を散らした。
――ああまったく、なんて忌々しい。
はじまりの神を模した四肢を持つ姿でなら、間違いなく舌打ちが飛び出していたことだろう。己の長い手足を思い浮かべ、竜は小さく息を吐いた。
竜は己の周りに生じた風の音に、荒んだ心をそっと預けた。翼を畳み、脚をついてそっと身体を丸める。そうして大地の声に耳を傾ければ、世界が竜に語りかけてくるのだ。
「……あれはまこと、姫神か」
答えなどないと知りつつ、竜は問いかけた。
蒼い髪に金の瞳。それはまさしく、神の象徴だ。その色を宿した人間など、神の後継者でしかありえない。人にしておくには惜しい美貌を持ち、背後に従えた人間どもにはない気質を宿していることは目に見えて分かった。
風に乗って、竜達の咆哮が耳に届く。いつもと変わらぬ夜明けを迎えたにもかかわらず、決定的になにかが違っていた。
「我らがなんたるかも知らぬ、ただの人の子ではないか」
よりにもよって、あの女は「どうして人間の姿をしているのか」と聞いてきた。
あまりの侮辱に、すべての竜が殺気を漲らせるほどの発言だった。
「あれが姫神だというのなら、なぜ“時”はまだ目覚めない」
竜は全知全能ではない。だからこそ、疑念が尽きない。
あの女は神の子であるはずだ。人の身でありながら人ではなく、神を継ぎこの世の要となるものだ。――その存在を、姫神と呼ぶ。
「なぜあの姫神は、あれほど下劣な臭いを纏わりつかせている」
憎々しげな竜の呟きに、周りを巡る風の温度がやや下がった。
朝日が空全体を明るく染め、夜が完全に消え去った頃、竜は再び翼を広げ、堅牢な城へと戻っていった。竜の姿からひとたび姿を転じれば、水色の髪を持つ青年が豪奢な衣服を纏って現れる。
恭しく頭を下げる臣下達を尻目に、竜は玉座へと歩を進めた。
+ + +
世界はそこにありますか。
蒼はそこにありますか。
それは本当に蒼ですか?
水面が色を変える日に、蒼はどこに消えますか。
「一体なんだっつーんだよ、あのトカゲ野郎! オイ、クソ虎野郎! 尻尾ぶった切りに行くぞ!」
「はいはい、馬鹿を言うんじゃないよ。それからフォルト、竜にトカゲは禁句だ。もし聞かれたら今度こそ食いちぎられるぞ」
「上等だ、やれるもんならやってみやがれ!」
並々と酒の注がれたジョッキを煽り、フォルクハルトは行儀悪くテーブルの上に足を投げ出した。即座にヴィシャムが叩き落としていたが、フォルクハルトは獣のように低く唸っていて反省した様子はない。
今にも噛みつきそうなその口に、焼きたての骨付き肉が押し込まれる。香ばしい香りとたっぷりの肉汁が食欲を掻き立てるそれに、さしもの野犬も食べることを優先したらしい。大人しくむしゃむしゃと頬張って、ぺろりと三本を平らげてしまった。
同じ料理を上品にナイフとフォークで切り分けて味わっていたライナが、そんなフォルクハルトの様子に深い溜息を吐くのも致し方ないことだった。小さな一口をしっかりと咀嚼してから、彼女はすっかり暗くなってしまった窓の外に目を向ける。