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 にっこりと微笑んだセフレーニアには怒気も殺気も纏っておらず、終始穏やかなままだった。だからこそ、完全に油断していた。向かい合った彼女の手から、ほろりとケリアの花が零れ落ちる。
 それが地面に接吻するよりも早く、彼女の膝が勢いよくエルクディアの股間を蹴り上げていた。

「ッ……!!」

 悲鳴すら上がらない。声が出ない。喉が塞がり、言葉にしがたい激痛に膝から崩れ落ちた。
 滝のように冷や汗を流しながら蹲るエルクディアの頭上に、先ほどと少しも変わらない優しい声が降ってくる。

「貴方は少し、急ぎ過ぎる。昔からそうでした。どうやら今の貴方は、ご自分の姿しか見えておられないらしい。自分が突き放したものがなんなのか、今一度よくお考えになられるといい」

 突き放したのではない。手放したのだ。――彼女のために。彼女の枷にならないために。
 そう言いたくても声が出ない。エルクディアの前に屈んで片膝をついたセフレーニアが、聖母のような笑みを浮かべて両頬に手を添えてきた。女性にしては少し大きくて、剣だこのできた硬い手のひらだ。それでも、男の手とは随分と違う。
 セフレーニアはエルクディアの顔を上げさせると、愛らしく首を傾げて聞いてきた。

「ところで、総隊長。先ほどのお話ですが、頭を撫で回してもよろしいですか?」

 力なく頷けば、犬にでもするかのように頭を撫で回される。
 やっと痛みが引いてきた頃、もしや彼女は怒っていたのだろうかと、そんなことを思った。


+ + +



 準備された大鳥は、あのとき乗ったものよりもさらに一回り大きかった。そんな巨大な鷲が二羽並ぶ姿は、まさに圧巻としか言いようがない。噛ませた轡も簡易のものではなく、しっかりした造りの鉄製だ。
 バスィールはシエラ達と共に騎乗し、前回脚に掴まれた二人は、もう一羽に別の僧侶と一緒に乗り合わせることになった。フォルクハルトがなにやら恨み言を零していたが、即座にヴィシャムに口を封じられてより一層喚いている。
 空が高い。浮かぶ雲は遠く、到底届くとは思えない場所にあった。通常であれば、どれほど恋い焦がれ手を伸ばしたところで、決して手の届かない場所だ。
 シエラの髪とは異なる青が、限りなくどこまでも広がっている。その向こうに、空を貫く山々が聳えていた。あの高地すべてが、竜の国だという。
 垂直に切り立ったテーブル状の山が数多く点在し、その中でも最も標高の高い山の頂上に竜の宮殿がある。
 まだ見ぬその場所に、シエラの胸は高鳴っていた。冷えるからと貸し出された外套が、吹き抜ける風に煽られる。大鳥に跨ると、スリットから白い太腿が露わになった。ライナに至っては、その脚線美を惜しげもなく光の下に曝け出すに至っている。

「姫神様。どうぞ、お気をつけて。宮殿に滞在が許可されるか否かははきと申せませんが、竜山の麓に小さな町がございます。いざとなれば、そちらでご宿泊なさればよろしいでしょう。その旨は使いの者が伝えておりますゆえ、あとはバスィールにお任せください」
「分かった。ありがとう、アフサル。――行ってくる」
「よき旅路を。ご多幸をお祈り申し上げます」

 両手を合わせたアフサルの礼に、控えていた僧侶達が皆揃って頭を下げた。
 甲高い笛の音が響く。身体の下で大鳥が震えるのを直に感じ、その羽毛がぶわりと空気を孕んでいく。二度、三度とその場で羽ばたき、大鳥は大地を蹴って飛翔した。
 風が躍る。砂塵が舞い、胃の腑が浮く。前回と同じように、ライナが悲鳴を上げた。
 どくどくと高鳴る鼓動が、自然と口元を綻ばせる。手綱を操るバスィールの髪がシエラの頬をくすぐり、その脇をテュールが飛んでいる。眼下に広がる砂漠の大地の中に、ぽつぽつと町が点在していた。
 荒涼とした大地にはやがて細い川が現れ、次第に太さを増して周辺に緑溢れるオアシスを作っている。その緑の道を辿った先に、人を受け入れぬ山々があった。痛いほどに叩きつける風の中、大鳥がぐんっと速度を上げてさらなる高みを目指して青い世界を滑る。

「ねえ! とっても、とーっても気持ちイイねぇ!」

 柔らかな頬を赤く染めて興奮しているルチアが、両手を上げて風を全身に浴びた。風圧で後ろに転がりかけた身体を咄嗟に抱き寄せて支え、抗議の代わりに睨みつけてやる。「えへへ」と舌を出して笑う姿は愛らしいものの、そう危ないことをしてもらっては困るのだ。
 ライナが眦に涙を浮かべて「ルチア!」と叱りつけ、その声に驚いたのか大鳥が一度大きく鳴いた。


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