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「姫神様。この地に、魔気はございますでしょうか」
「いや、ちっとも。どこまでも澄んでいて、一度も感じたことがない」
「おそらく、それが我らが祖がこの地を選んだ理由であると、考えられております」
「つまり……、この地には魔物が出ない、と?」
「ええ。竜がそれを許しません。悪しき魔の者を薙ぎ払い、焼き尽くし、凍てつかせる。竜のもたらす結界が魔の者を阻んでいるのだそうです」
オリヴィニスには魔物が出現しない。竜の結界が彼らを阻んでいるという。
だが、シエラはもちろん、ライナやフォルクハルト達も結界の存在を感じなかった。聖なるものであればなんらかの変化があってもおかしくはないはずだが、誰一人としてその存在に気づいていない。幻獣の施したものだからとアフサルは言う。彼らは人とは異なるのだから、と。
しかし、それほどのことをシエラに話してもいいのだろうか。もしも国に戻ってこの話を漏らせば、アスラナが色気を出さないとも限らない。あの国の大軍が動けば、いかなオリヴィニスの僧侶と言えども不利なのではないか。
そう言ったシエラに、アフサルは声を立てて笑い、どこか慌てたように口元を押さえて笑みを噛み殺した。
「失礼を。なれど姫神様、ご心配は無用にございます。貴女様の生まれた国を侮るわけではございませんが、一つ確かなことがございます。――オリヴィニスの盾は、いかな大国であろうと崩せない」
砂を含んだ突風が吹き、裾が捲れて剥き出しになった太腿を小さな粒が叩いていった。どうやら砂嵐が近づいてきているらしい。すっと風上に立ってシエラを砂の襲撃から守ったアフサルが、室内へ入るように促してきた。このまままた砂埃にまみれる気は毛頭なかったので、大人しく僧院の中へと戻る。
火を移した手燭を片手に部屋まで送ってくれたアフサルが、壁に影を揺らめかせながら言った。
「姫神様。我が弟子は、貴女のお役に立ちますでしょうか」
「ああ、とても。ジアがいると、心強い」
「それはようございました。オリヴィニスの僧として、貴女の片腕となりますことを心より嬉しく思います」
この国はとても変わっている。
シエラの持っている常識では理解することができない。だからと言って、彼らはそれを咎めることはないのだろう。心地の良い場所だと思った。澄んだ空気が肺を満たす。
すっかり拗ねてしまったライナが寝台に丸くなっているのを見ながら、シエラはふと気づく。
この僧院を訪れてから、崇められそうになることはあれど、じろじろと稀有の眼差しで見られたことはなかったことに。
+ + +
心地いいでしょう。
だってそこは、かつての貴女が愛した場所。
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王妃を迎えた国王は、新妻とゆっくりと語らう暇もないとからかわれるほどの政務に負われていた。魔導師達との一件が片付いたと言っても、まだまだやることは山積みだ。休んでいる暇などない。
とはいえ、今日はクレシャナとの昼餉を予定している。王妃に与えられた専用の離宮は、一年中花で溢れる愛らしい場所だ。それゆえ、花離宮と名づけられている。
一息ついたところで、そろそろ離宮を目指そうかと腰を上げたユーリのもとに侍女が一人やってきた。紅茶を淹れる手つきは優雅で文句の付けどころがない。自然と礼を言いかけて、彼女の目を見るなり、ユーリは目を丸くさせて小さく噴き出した。
「ああ、驚いた。相変わらず君は――いや、君達はと言うべきかな――、姿を変えるのが上手いね」
「お褒めに預かり光栄です、陛下。気づいていただけなかったらどうしようかと思いました」
「手を取る前に気づいて助かったよ。――その姿もよく似合っているね、アリス隊長」
淑やかな微笑みを浮かべて一礼した侍女は、纏めていた髪をほどくとその雰囲気を一変させた。広がる髪と同時に、得体の知れない妖しさが全身から立ち昇る。
九番隊スコーピオウは、地方の魔導師学園の監査に同行させていたはずだ。万が一反抗されれば文官だけでは対処できない。隊長であるアリスももちろん一緒に向かっていたというのに、いつの間に帰ってきたのだろうか。それを訊ねるのは酷だった。なぜなら、別の仕事を任せたのがユーリ自身であるからだ。