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ヴィシャムの長い腕がついにフォルクハルトを捉えたが、彼はそれこそ野良犬のような荒々しい瞬発力で拘束から抜け出し、腰を捻って強烈な蹴りを叩き込んでいた。
そんな二人に呆気に取られていると、ぶわりと突風が吹いて砂が舞い、大鳥が飛翔したのを知る。蒼穹に吸い込まれるようにして飛び立つ影が消えるのと入れ替わりに、目にも鮮やかな極彩色の僧衣の集団がシエラ達の前に現れ、一斉に跪いた。
「ようこそお越しくださいました、姫神様。長の旅路、お疲れでございましょう。窮屈なところではございますが、どうぞ僧院の方へ」
彼らはバスィールに深々と礼をすると、シエラ達をバルティアール僧院へと案内した。
僧院は山肌をくり抜くようにして建てられたのか、そのまま山と一帯になっているかのような外観をしていた。石造りの建物は凝った装飾などなく、ただの“箱”のように見えるほどだ。
だが、中に入れば空気が一変した。高い天井は穹窿(きゅうりゅう)で、見上げれば吸い込まれそうな錯覚を覚える。満ちる香りは微かに甘く、それはあちこちにぶら下げられた燭台の蝋燭から漂っていた。
広々とした堂内に、バスィールと同じような極彩色の僧衣を纏った男達がそれぞれ作業に従事している。正面には祭壇があり、天井から一枚のタペストリーがかけられていた。はっとするほど美しい蒼で染められたその布は、揺らぐ蝋燭の明かりの中でもなぜかはっきりと見て取れた。
ぼうっと見つめていた手を引いたのは、ここに着くなりいつの間にか人化していたテュールだ。小さな竜の子どもはきらきらと左右異色の瞳を輝かせ、タペストリーを指さして笑う。
「しえら、いっしょ。いっしょの、いろ」
「え……。ああ、そうだな……。一緒の、色だ」
煌々と照らされる祭壇に己の髪を翳してみたが、薄闇の中ではよく分からない。それでも、確信めいたものがあった。あのタペストリーの蒼は、この髪と同じ色をしているのだと。
当惑する気持ちを隠せずにいたシエラの前に、数多の足音と錫杖の遊環が奏でる涼しげな音を響かせて、一塊になった僧達がやってきた。その中央に囲まれた人物が前に出てくるよりも先に、シエラの隣でバスィールが床に膝をついて深々と頭を下げる。
現れたのは、浅黒い肌を持つ長身の男性だった。バスィールよりもさらに複雑な刺青を顔や腕、足の見えるところにくまなく刻み、癖の強く出た黒髪を複雑に結い垂らしている。その瞳の力強さに、目が合うなりシエラは心臓が掴まれたような感覚を覚えた。
「お会いできて光栄です。私はナルゲスのアフサル・ヴァファー・ハナン・マナーフ。ここバルティアールの大師であり、そこにいるバスィールの導き手でもあります」
「ただいま戻りました、お師様。こちらが姫神様であらせられる、シエラ・ディサイヤ様。そして、アスラナからの使者殿達です」
シエラの前では跪いて頭を垂れたアフサルは、ライナ達を見て立ったまま「よくぞ参られた」と笑った。どうやら、オリヴィニスの人間にとって、アスラナという国はあくまでも対等な立場にあるらしい。
式典の際、小国の王や貴族ほどアスラナ高官に媚びた笑みを浮かべ、まるで臣下のように振る舞った。しかし、バスィールを初めとするオリヴィニスの人々は、礼儀正しいながらもへりくだるような真似はしない。
それぞれの名乗りが終わって案内された部屋には椅子がなく、代わりに床に敷いた敷物の上に直接座るようになっていた。常に裸足でいるオリヴィニスの僧侶達に倣って、部屋に上がる際はシエラ達も靴を脱ぐ。
多くの僧侶達を従えるような形で上座に座ったアフサルが、ひたとシエラに視線を据えて口元を綻ばせた。
「姫神様は、このオリヴィニスになにをお望みであられるのでしょうか」
穏やかながらも核心を突くその一言に、シエラではなくライナの方が息を飲んだ。
ここはオリヴィニスだ。そして眼前のアフサルは、この場で最も徳の高い僧侶だという。ならば、偽りを述べたところでなんの意味もなさないのだろう。たちどころに見破られ、その時点で彼らの中でアスラナの立ち位置が決定づけられる。