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風を切る音が痛いくらいに身体を叩くのに、それがこんなにも気持ちがいい。まるでシエラ自身が鳥になったような気分だった。恐怖から目をぎゅっと閉じるライナがもったいないと思うほど、シエラは今見えているこの景色を楽しんでいた。
手綱を握っていたバスィールが、軽く振り返ってシエラに視線を投げる。彼はなにも言わなかった。もし声を発していたとしても、この風の中では聞こえなかっただろう。それでも、なにか聞こえたような気がして応えていた。
「――ああ、とても綺麗だ」
腕を広げて、抱き締めたくなるほどにこの世界は美しい。
うっすらと微笑むバスィールの横顔が、流れる銀髪に隠されて消えた。
+ + +
そこはかつての約束の大地。
美しいでしょう。
そこはかつての貴女が愛した場所。
愛おしいでしょう。
貴女の愛が、そこに眠る。
青き空、緑生い茂る森、清廉な泉、すべてを抱く砂の大地。
貴女、そこに愛し子封じた。
遠い昔、貴女、そこに愛し子と共にいた。
+ + +
プルーアス帝都サウラの都にも、カッセル公爵家は大きな屋敷をいくつか構えている。本邸はオバルの地にあるが、大公爵ともなれば城の一の郭にも屋敷を与えられており、その上、帝都にも別邸を持つ。
先日のアスラナ王の結婚式に招待されていたスティーグは、つい数時間前までその旨を報告すべく城にいた。そのまま城内の屋敷に戻ってもよかったのだが、ふと思い立って帝都の別邸へと馬車を走らせたのだ。今、帝都には、日頃ユーランの地に駐屯するテュヒュール騎士団が待機している。その団長であるアロイジウスとスティーグは気の合う友人でもあった。城を出る前にアロイジウスに使いをやり、別邸へ足を運ぶよう告げたのである。
久しぶりに訪れた別邸は、長の不在にもかかわらず管理が行き届いていた。どこもかしこも綺麗に磨き抜かれ、埃臭さなど微塵もない。深く沈む寝椅子(ソファ)に腰を預け、スティーグは相変わらずむさ苦しい姿の友人を眺めた。
「どうだった、アスラナ王妃は」
「なんの、ただの子どもだ。少し話してみたが、なんのことはない。学はなく、色気もない。田舎娘にしては品だけはあったが、身に着けた教養は付け焼刃。見てくれも……そうさな、言ってしまえば痩せた小鳥か。とかく小さい。アスラナ王はあんな娘を楽しんでいるのかと思うと、実に滑稽だ」
「女には赤子から老婆に至るまで等しく優しいカッセル公の発言とは思えんな」
「ぬかせ」
スティーグは軽口を叩く友人を鼻で笑い、葡萄酒の瓶を手酌で傾けた。芳醇な香りを楽しみ、グラスに伝う赤紫の美酒を光に翳して色までもを楽しむ。こうした楽しみ方を知らないアロイジウスは、注げばすぐさま水のように呷っていくのだから品がない。剛勇無双なテュヒュール騎士団長ともなれば雅からは縁遠くても許されるが、これでは皇帝陛下の晩酌には付き合えないだろうに。
ゆっくりと目を閉じれば、緊張した面持ちのあどけない少女の姿が鮮明に思い出せた。
プルーアスでは、貴族家の年頃の娘ならば髪は長く伸ばしているのが常識だ。しかし、彼女は若草色の髪を潔いほど短く切っており、こちらの感覚で言えばみすぼらしいことこの上ない。あれでは結い上げることもできないだろう。
どこにでも転がっていそうな凡庸な娘だったが、唯一目を引くと言えばその瞳だった。すっきりと晴れ渡った初夏の空を思わせる、鮮やかな青い瞳。それ以外に特筆すべき特徴はさしてない。
畏まりながら皇帝に語って聞かせたのと同じ内容を、今度は酒を飲みつつ友人に聞かせる。
「侍女達の話によれば、アスラナ王が突然城に招き入れた娘らしい。城に上がるきっかけとなった事故は偶然とのことだったが、王妃が寵愛を狙ってわざと馬車を転がさせたのではという話もあったな。だとすれば大成功だ。アスラナ王は数多の無茶を通すほどに娘に惚れ込み、あの娘はまんまと王妃の座を手に入れたことになる」
「ほう、それほど強かな娘だったのか?」
雪の影を映したような、青みがかった灰色の瞳が面白そうに歪んだ。