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*第4話
満ちる月に血が吠える。
獣の咆哮は夜を裂き、光を喰らう。
戸口を叩くのは誰か。
道を示すのは誰か。
見定めろ。
――闇に喰われたくないのなら。
+ + +
「ねえライナ、どうして明日また来るの? 今日、ぜーんぶ話聞いたんじゃないの?」
王都クラウディオ。太陽は地平線の上にかろうじて引っかかっている状態で、既に反対側の空には夜の女神が静かに灯りを称えている。
一歩先を歩きながら振り返り、後ろ向きに歩き続けるラヴァリルは屈託のない笑みを浮かべながらライナに尋ねた。「こけますよ」と言いながら、ライナはちらと目を月に向ける。ほとんど真円に近いそれに恐怖にも似たような感覚を覚え、彼女は肌が粟立つのを感じた。
器用に後ろ向きで段差を越えてみせるラヴァリルの運動神経は、並大抵のものではないことが窺い知れる。
「明日は満月ですから。……月は聖と魔、両方に力を与えます。特に満月の晩は魔物の力が最も高まる日なので、くだんの魔物も明日現れるでしょう」
「へー……あ、でもなんであのお店なの? 別のところで張り込んだ方がいいんじゃ……」
言いかけたところでラヴァリルはくるりと半回転し、軽やかな足取りで階段を駆け上がる。歩き疲れて足が鈍痛を訴え始めているシエラとは裏腹に、彼女はどこまでも元気そうだった。
そして彼女の中で疑問は尽きることを知らない。まるで知識を得始めたばかりの幼子のようだと隣でエルクディアが苦笑し、なるほどそうかと納得した。
思考力がついてきたばかりの子供は知的好奇心が強い。常に「どうして」「なんで」を繰り返し、親を困らせるのも珍しくない光景だ。シエラも昔は好奇心がとても強い子供だったらしい。
らしいというのは、本人の記憶にはまったく残っていないからだ。「空と世界はどっちが広いの」などという答えようのない質問を、姉のリアラによくしては大いに困らせていたと聞く。
自分が納得するまで――と言っても難しい用語や事象など理解できるはずもないのだが――答えを求め続け、姉の答えに満足しなければ父や母、あげく村中の人々に聞いて回ったらしい。
今からは微塵も考えられない情景に、シエラはそれが冗談だろうと思っている。
しかしラヴァリルは幼い頃から『そういう』子供だったのだろう。
ひんやりとした風にライナは前髪を押さえて目を細める。
「今まで魔物が発生していた箇所を線で結ぶと、上下が逆の五芒星になります。その星の中央にくるのがあのお店なんですよ。一番最初に出会った人間を最後の犠牲者とする例は今までいくつもありますし、十中八九あの付近に出るでしょう」
「……なんだかそれ、あの人達を囮にしてるように聞こえるのは俺の気のせいか?」
「気のせいに決まっているでしょう。どうしてわたしが民間人を囮にするんですか! 囮になるのはむしろ貴方ですよ、エルク。シエラの神気をたっぷり纏って走り回ってもらいますからね」
途端にため息をついたエルクディアの声を聞きつつ、シエラは不意に感じた違和感に眉根を寄せた。確認の意味も込めてライナを見てみるのだが、彼女は別段なにも感じていないようである。
ならばこれは気のせいなのだろうか。ほんの一瞬感じた、非常に僅かな魔気は。
城まであと半分というところで陽は既に落ち、辺りを薄藍の闇が支配し始めている。一番星が針の先のように光り、月は一層の明るさを増していた。
人々は家に帰ったのか人通りは本当にまばらで、すれ違ったのも片手で足りるほどだった。王都は昼間とは打って変わってしんと静まり返っているものの、夜特有の騒がしさが耳朶を叩く。
静かに鳴く虫の声や、遠くから聞こえる獣の咆哮。ほーうほーうと高いのか低いのかよく分からない音階で長く響く鳥の鳴き声が、どこか不気味だ。
しかし獣の声などは村で聞き慣れている。にもかかわらずこうしておぞましさを感じるというのは、人と獣、そして魔が入り混じった雑居空間だからなのかも知れない。
ぴり、と感じた魔気――のような感覚――にシエラは再び訝った。
「おい、ライナ。なにやら妙な気配がしないか?」
「妙な気配……ですか? 別になにも感じませんけど……」
エルクは、とライナが問う。
「俺も特には。……てことは、人間じゃない可能性が高いな。魔物か?」
「それは分からない。だが、嫌な感じだ。あまり気持ちのいいものではない」
シエラの金の双眸は、魔気を感知すると夜目でもはっきりと辺りを見通すことができるようになる。
なれど今、目の前に広がる光景は闇に包まれた不明瞭な視界のままだった。だからこそ分からないのだが、他の三人は首を傾げるばかりである。
気のせいだと言いかけた瞬間、背後から魔気の爆発が生じた。
さっとライナの顔色が変わり、彼女は慌てて後ろを振り向く。それと間を置かずにラヴァリルの探知機が甲高い音を鳴らし始め、魔気を感じ取ることのできないエルクディアでも魔物の発生を察知することができた。
「そんなっ……どうしてこんな急に!?」
「わっかんないけどライナ、これってちょっと急いだ方がよくない? 結構すごい魔気、だよね」
「ああもうっ、引き返しますよ。お店の方から感じます! 一応結界は張ってきましたが……いささか心配ですね」
ライナが腰のポーチから聖水の瓶を取り出し、辺りに振り撒きながら会話の合間に神言を唱える。慌てて駆け出した一行の視界は既に闇で覆われ、簡易ランプを走りながら器用にラヴァリルが灯す。
ゆらゆらと不安定な光源ではあったものの、ないよりも格段に状況はいい。
あまり走るのが得意ではないシエラにとってはかなり体力を消耗するが、それはライナも同じようだった。
彼女の場合は同時に法術も使っているので疲労の色が目に見える。
息一つ乱さず駆けるエルクディアとラヴァリルは、その表情に僅かな不安の色を浮かべていた。冷えた外気は喉を痛め、体力を容赦なく奪っていく。
ひゅっと不自然な呼吸音が生まれだした頃、シエラの手が大きなそれによって引かれた。
そのぬくもりと手のひらの硬さには覚えがあった。確か昼も、同じ手に支えられたのだ。
顔を上げれば、心配そうなエルクディアが幾分か速度を落として――彼にとっては歩くのと変わりないのだろう――シエラの顔色を覗き込んでいる。
「大丈夫か?」
無理だと言うべきか平気だと言うべきか迷ったシエラは、声を出すことも億劫になって小さく頷くだけに留まった。
その隣でまろびかけたライナをラヴァリルが素早く支える。
「あ、そういえば、さ。さっきの、えるくんを囮にーってどーゆーこと?」
「シエラの神気を、たっぷりつけた花でも持たせて、そこら中を、あるっ、かせようとした、だけですよ!」
「神気を……花に? ライナ、どういうことだ」
喋らせるなといった意味合いの視線が、すぐさまエルクディアとラヴァリルに向けられたが、真面目な神官は律儀に答えた。
「花は、神聖な、ため、神気を吸いやす、いんですっ。だから今、こうしてシエラの、神気を散らして――」
どんっと音がしそうなほど勢いよく、シエラはエルクディアの背中に鼻をしたたかに打ちつけた。急に立ち止まった彼を誰もが不思議そうに見つめる中、ライナが呼吸を整えながら苦しそうに首を傾げる。
シエラはずきずきと鈍く痛む鼻に手を当て、手首に込められた力の意味を知らないまま彼をねめつけた。