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むくれながらもラヴァリルが両手に石を抱え、渡すべきかどうするべきか迷った末に己の財布の中へ戻した。
確かにただの小石を大量に渡されたところで困るだけなので、ラヴァリルの判断は正しいと言えるだろう。手にしていた赤い石を差し出せば、彼女は唇を尖らせたまま受け取った。
渡したあと、ふとシエラは思う。
あの石がまだ腕輪の形を持っていたとき、ライナが石を見てなにやら怪訝そうな顔をしてはいなかっただろうか。
輝石と道端の石の感覚が同じなシエラには、あの石が法石としての役割を持っているのかどうかも分からない。名前も知らないのに、石言葉など知るはずもないのだ。ぼんやりと脳裏に残っている単語は「レッドアンバー」だったが、今ある情報はそれだけだった。
それにしても、聖職者とは石の名前や意味まで覚えなければならないのか。随分と面倒な――と今まで何度となく思ってきた台詞を、胸中で呟いて溜息に変換する。
ようやくライナが奥から戻ってきたとき、彼女は両手にたくさんの紅茶缶を抱えていた。
「いやー、待たせちまって悪いね! みんなで飲んでおくれよ、うちの紅茶。……おや、セルはどうしたんだい?」
「セルちゃんなら二階に行きましたよー。なんか慌ててたけど、どうしたのかな」
「二階? まったくあの子は、お客さんが来てんのになにやってんだか。ちょっとセル。セルラーシャ! 降りといで!」
眉を吊り上げて怒りを露わにしたマーリエンが声を張り上げて二階にいるセルラーシャを呼ぶと、すぐに声が返ってくる。騒がしい音を立てながら顔を覗かせたセルラーシャは、頬を紅潮させて階段を駆け下りてきた。
そのたびに跳ね上がるやわらかな赤毛には、先ほどは見られなかった髪飾りがいくつかあしらわれている。
どことなくぎこちなく微笑みながらシエラ達の前に立った彼女は、もじもじと髪をいじりながら言う。
「ま、また来て下さいね! それと――」
そこでセルラーシャの言葉が不自然に途切れる。彼女の視線はエルクディアの頭に向けられており、その先を追うようにして見たシエラは、彼女の言葉を奪った理由を見つけた。
突然のことに驚きを隠せない彼を放置し、後頭部についていた「それ」を取る。
そのとき感じた突き刺すような眼差しの意味を、シエラは知ろうとも思わなかった。
「……取れたぞ。女でもあるまいし、花など頭につけてどうする」
「花びら? ああ、さっきの……。ありがとう、シエラ」
このことを言いたかったのだろうと思ってシエラはセルラーシャを見たのだが、なぜか彼女は眉間にしわを寄せて俯いていた。
正直なところ彼女がなにを思おうとどうでもいいので、さして気にすることもなくシエラは手近にあった円卓の上に花びらを置いた。
「じゃあ帰りましょうか」というライナの言葉に促され、今度こそ彼らはグローランスの紅茶店を後にした。
+ + + お姫様。
その単語はとても甘く優しくて、きらきらしている。少女ならば誰もが一度は夢見る言葉だろう。
煌びやかに飾り立て、豪奢な城で一生を過ごし、見目麗しい王子様や騎士達が手の甲に口付ける。世界中の誰もが自分一人にかしずいて愛を囁く。誰からも愛される、かわいくて綺麗なお姫様。
セルラーシャとて、昔は憧れていたものだった。片隅とはいえ王都に店を構えるだけあって、家の財政は比較的豊かだ。都には城に仕える兵士もいれば騎士もいる。時々貴族だって店にやってくる。だから、そう遠くはない夢なのだと思っていた。
日々の労働で手が荒れ、髪がぱさつき、肌が日に焼けるまでは、ずっと。
温室育ちのお嬢様や深窓のお姫様などとはかけ離れてしまった頃、ようやく彼女は気が付いた。所詮夢は夢なのだと。どう足掻いても自分はただの町娘でしかなく、どれだけ背伸びをしてもお嬢様にさえ手は届かない。
それでも夢を見るくらいは自由だから――そう思っていた矢先、まさに理想の騎士様が現れた。白馬にも馬車にも乗っていなかったけれど、真剣な眼差しと笑顔が印象的な素敵な青年。一目見た瞬間胸は高鳴り、恋をしたのだと自覚した。
けれど、彼の視線の先にはいつもいつも、「お姫様」がいる。
今まで見た誰よりも美しいその人を見る彼の目はとても優しくて、彼女は大切に守られているのだと、すぐに分かった。彼の「お姫様」の席にはもう既に彼女が座っていて、自分が入る隙など微塵もない。
日差しを浴びて傷んだ赤毛と、艶やかな蒼い髪。珍しくもない茶色の目と、澄み切った金色の目。そばかすの浮かんだ肌と、白くすべらかな肌。
どれをとっても勝てるはずなどない。初めから立っている世界が違いすぎたのだ。
だって相手はあの神の後継者で、ゆくゆくは神となりこの世界を守護する神聖不可侵の存在。対して自分は、探さなくてもどこにでもいる平民の娘。
それを分かっているはずなのに、きちんと頭では理解しているはずなのに、心はそれを拒絶した。
黒い感情が靄を撒き、四肢を絡める闇を降らす。止めようとしても止まらない負の感情は徐々に全身を蝕み、やがてはすべてを侵食していった。
セルラーシャは落ち着かない心臓を抱えたまま扉の外を見つめ、しばらくしてから二階にある自室へ戻ろうと踵を返した。
そのとき足裏になにか違和感を感じた。足をどければ、小さな赤い石が床に転がっている。
どこかで見たような気がするが、一体どこで見たのかが思い出せない。
そこらの小石にしては綺麗に研磨されているし、どことなく雰囲気が違っていた。光沢はないが深みのあるそれをじっと見つめ、息を吐く。
そういえば、これに似たような石の腕輪を露店で見たような気がする。
ならばこれは天然石だろうかと考えて、セルラーシャは捨てようとしていた己の手に歯止めをかけた。
綺麗なのだし、誰のものだったのかも分からない。石には小さな穴が開いているから、やはり腕輪かなにかの一部だったのだろう。どうせ壊れたものなのだ、誰も必要とするはずがない。
彼女はそう判断し、赤い小石をポケットに入れた。深い赤が、心を癒してくれるような、そんな気がしたのだ。
汚い感情を持つ自分を許し、恨んでもいいのだと言ってくれているような気がした。
悪いのは自分ではなくて、守られてばかりいるお姫様の方。自分の力ではなにもできない飾り物のお姫様には、自分の苦労は一生分からない。
だから、少しくらい疎んでもいいのだ。むしろそれが正しくて、心の均衡を保つ上では必要なこと。
誰もが口を揃えて言うはずだ。セルラーシャ、お前は悪くないよ――と。
ルーンが二階から降りてきたと思ったら、セルラーシャを見た途端に怪訝そうな顔をした。
それが気に食わなくて唇を尖らせれば、彼はどこか硬い表情のまま瞳を覗き込んでくる。
不可解な行動に驚きつつも眉を寄せれば、彼は首を傾げながら言った。
「なにかあったか?」
「別に、なにも」
「なにもってワケねぇだろ。そんな膨れっ面して」
「なにもって言ってるでしょ。ルーンには関係ないじゃない」
「セルラーシャ」
諌めるような呼びかけが癪に障った。どうして今日に限ってルーンは自分を煽るようなことばかり言うのだろう。なにもないと言っているのだから、放っておいてくれればいいのだ。
それなのに彼は一歩も引こうとはしない。むしろセルラーシャの肩を掴み、無理やり自分の方を向けさせた。
「セル!」
「なによっ、ちょっと機嫌悪いだけ! イライラしてるの、あの後継者サマにっ!」
ぱしんと強く手を払い、噛み付くように言う。続けて皮肉な笑みを浮かべた。
「綺麗なお姫様だよね、私なんかとは違って。エラソーにしちゃってさ。あーゆーヒト、私大ッ嫌い」
「……どうしたんだよ、お前。なんか変だぞ?」
「どうせ私は変ですよ。――そうよ、変なのよ! 自分でも分かってるよそんなこと! でも仕方ないじゃない、止まんないの! もうほっといてよ!」
突然感情的に叫びだしたセルラーシャにルーンが目を瞠り、開きかけた口に蓋をした。
それを見て彼女は嘲笑を口元に刻み、ふと視線を落とした円卓に載っていた一枚の花びらを指で摘んだ。深紅に燃える花びらは、先ほどの石と類似している。
――本当なら、自分が取ってあげたかったのに。
騎士様の髪に色を添えていた花びらを見つけた瞬間、なんて好機(チャンス)なんだろうと、花に感謝したほどだ。
それなのにその折角の機会を、あの神の後継者が奪っていった。最後には、勝ち誇ったような表情さえ浮かべているように見えたほどだ。
ぎり、とセルラーシャが唇を噛む。握り締めた花びらが熱を持っているかのような錯覚が生まれ、手のひらをじりじりと焼いていた。
実際焼かれていたのは心の方なのかも知れない。燻る憎しみの炎は正常な思考を焼き払い、灰へと変える。
「嫉妬してんのか?」
「っ――! うるっさいな、ほっといてって言ってるでしょ!」
怒鳴った瞬間、ポケットに入れていた聖水の小瓶が滑り落ち、音を立てて割れた。床に聖水の染みが広がっていく。
――神はそこまで私を嫌うのか。ならば神など消えてしまえばいい。私に味方をしないのなら、神なんて必要ない。
怒りで真っ白になった頭のまま、セルラーシャはルーンを突き飛ばした。
感情のまま力を込めたせいか、いつもならばびくともしない彼がいとも簡単に後ろによろける。その一瞬の隙を見逃さず、彼女は扉を壊す勢いで店から飛び出した。
背中に届く制止の声を振り切って踏み込んだ夜の闇は、冬でもないのに刺すような冷たさで熱を奪う。
無我夢中で走り続け、何度も躓いては起き上がった。こけたときに擦り剥いた膝がじんわりと熱を帯びて痛んだが、それでも足は止まらない。
ルーンの追ってくる気配がしたが、彼女は止まろうとはしなかった。
やがて、胸が苦しくなって立ち止まる。
からからに乾いた喉を潤すために唾液を嚥下するのだが、上がりきってしまった息がそれを邪魔した。
膝に手をついて呼吸を整える。まだまだ苦しかったが我慢して顔を上げれば、随分と走ってきたのかもうすっかり店は見えなくなっていた。
空を仰げば、今にも満ちそうな月が煌々と辺りを照らしている。
勢いで飛び出したのはいいものの、戻る以外に自分の居場所はない。
せめて途中でルーンに見つからなければいいのにと思ったセルラーシャは、ふと違和感に気がついた。
しかしそれを口にする前に、ぱしりと後ろから腕を掴まれる。
振り返った彼女の視線の先に存在したのは、ぽっかりと口を開けて広がる常闇の世界だった。
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