1 [ 579/682 ]

*第31話


 それを知れば、すべてが崩れる。
 そうと知っていて、真実を望むのですか。
 崩れ落ちた先に、なにがあるというのですか。
 絶望や、悲しみや、諦念の泳ぐ深い水底に、なにを求めるというのですか。
 そうして求めた真実は、一体なにをもたらすのですか。



崩落の予兆




 男は懇願した。
 膝をつき、涙ながらに頭を下げた。
 どうか妻と子を助けてくれ、と。
 初めて見るその姿に、魔女は少なからず困惑した。
 魔女の知る限り、男はいつも傲慢だった。偉そうにそっくり返って命令し、魔女を便利な道具か玩具のように扱ってきた。そんな男が、額を擦りつけんばかりに頭を下げているのだ。これが動揺せずにいられようか。
 男とは長い付き合いがある。そんな彼が妻を迎えたのは、今から数年前のことだ。相手は中流貴族家の娘で、山賊上がりの男からすれば逆玉の輿だった。この性悪男が何十枚もの猫を被って好青年を演じて射抜いたお嬢様は、柔らかく笑う女性だった。線が細く、結婚した男が元山賊だなどと知れば、あっという間に気を失ってしまいそうな繊細な女性に見えた。
 すぐに正体がばれて離縁を迫られるだろうと踏んでいたのに、どういうわけか男は上手くやり、立て続けに三人の子をもうけた。妻と子の前では綺麗に牙を抜き去った男は、それでいて魔女の前ではかつての傲岸さを崩そうともしていなかった。
 それなのに、今の彼は哀れなほどに弱々しい。

「頼む、医者にはもう後がないと言われた。誰に見せても無理だと言う。“人間の医者”じゃどうにもできない。後生だ、助けてくれ」

 男の妻は心臓を病んだ。
 そうと知ったとき、彼女の腹には四人目の子が宿っていた。
 女の身体は出産に耐えられるはずもなく、子を望めば必ず死ぬと、どの医者も口を揃えて言ったのだ。
 産めば死ぬ。だが、彼女は頑なに諦めようとはしなかった。もうすでに三人の子に恵まれたのだからと、周りがどれほど説得を重ねても、彼女は柔らかく微笑んで「命に引き換えても絶対に産む」と譲らない。
 また、今まで飲んだ薬の影響で、子にも悪影響が出ていると男は語った。いつ流れてもおかしくない状況で、そうなってしまえば気力で持たせているに等しい妻の心臓は、心労で止まってしまうだろうとも。

「魔女のお前なら助けられるだろう!? 頼む、お願いだ、助けてくれ……!」

 聞いてやる義理などない。そう言って突っぱねればよかったが、魔女は男の瞳から溢れ出る涙を前になにも言えなかった。重ねてきた思い出を――どれもろくなものではなかったが――心の棚から一つ一つ取り出しては眺め、しばらくそれに浸っていた。
 出会ったのは、雨の降る日の崖下だ。けぶるような霧の立つ、ベスティアの森の奥だった。緑の匂いが濃い場所だった。薬草取りに夢中になって足を滑らせ、崖から転げ落ちてきた魔女を見て、男は鼻で笑ったのだ。
 ――ああ、本当にろくな思い出がない。

「……そんなに、奥さんを愛しているの?」

 男は頷く。彼女を失いたくはないと。それだけは嫌だと。妻と子の両方を助け、幸せに過ごしたいと。
 笑いたくなるほど欲張りで、それは生ある限り望んで当然の願いだった。
 男はいつだって傲慢だった。魔女を魔女とも思わず、下僕かなにかのように接してきた。そんな男を助けてやる義理などあるはずもないのに、どうしてか手は懐の秘薬を握っていた。
 風に紛れて訪れた屋敷に、青白い顔の女が眠っている。以前見たときよりも随分とやつれているようだった。生気は薄れ、腹の子もそう丈夫ではないらしいことが見て伺える。
 魔女は男の妻を助けた。心臓の病を癒し、子が流れるのを防いだ。男は涙ながらに感謝したが、魔女は暗い顔のまま言った。

「これで助かったとは言えないわ。確かに奥さんの心臓は出産に耐えうるし、子どもも流れることはない。けれど、奥さんを癒した薬が赤子には毒となる可能性が高い。これは人間が与えた薬であっても同じことよ」
「そんな……」
「人間の胎児に及ぼす魔法薬の影響なんて、試したことがないから分からない。一つ言えるのは、“魔法”の流れる血は、人間として生まれた瞬間に牙を剥くかもしれないってこと」

 器はただの人間であるのに、流れる血には人ならざる力を秘めている。そうなれば、赤子の力では御しきれないだろう。



[*prev] [next#]
しおりを挟む


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -