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「じょ、ちゃ……?」
「ッ! せんせっ、先生……! せんせぇっ!!」

 吐息に僅かな音が乗っただけの、声とも呼べぬものだった。けれど、掠れたそれは確かに彼の唇から零れ落ち、ソランジュの鼓膜を震わせた。痩せた頬はまだ青白いが、ゆっくりと上下する瞼は生命を感じさせるには十分だ。
 握った手は、かつてのように強く握り返してはくれない。それでもよかった。赤子よりも弱い力だったけれど、彼は自分の意思でソランジュの手を握り返してくれたのだから。
 言葉が出ない。どんな言葉もすべては嗚咽に変わり、ずっと言いたくて仕方のなかった思いが涙となって溢れ出す。
 ずっと待っていた。この瞳が、今一度ソランジュを映してくれるその瞬間を。ずっと、ずっと。
 彼は死なないと、死ぬはずがないと約束した。だからそれを信じてずっと待っていたのだ。

「せん、せっ、」

 おはようございます、おかえりなさい、よかった、ごめんなさい。
 言葉は雫に姿を変えてフェリクスに降りそそぐ。少し濁った双眸がソランジュを見て、乾いた唇がなにかを紡いだ。聞き取れず、縋るようにして耳を近づけたソランジュは、今一度囁かれたその言葉に滂沱として涙を流した。
 胸が痛む。安堵と歓喜に叫び、罪悪感にのたうつ。愛おしさが、溢れた。
 ――ソランジュ。
 どうして今、名前を呼ぶの。目が覚めて一番最初に私を呼んで、そんな強い鎖をかけて、どうするの。

「せんせぇ、」

 紡ぎ出された己の名に、ソランジュはとめどなく流れる涙を拭わぬまま、導かれるようにしてフェリクスの唇を確かめた。涙が乾いた唇を濡らしていく。
 ひび割れた唇の上で、祈りを込めて囁いた。

「だいすきです、せんせい……」

 この心をすべて明け渡してもまだ足りないほどに、貴方を愛しています。


+ + +



 青の中に、花が咲く。
 小さな白い花が揺れ、空を目指して海を泳ぐ。
 咲いたところで、すぐに枯れてしまうのに。
 明けぬ夜が貴女から光を奪い、貴女を喰らってしまうのに。
 貴女、それでも咲くの?
 咲かずにいれば、貴女、つらい思いはしなくて済むのに。

 どうして貴女、ここにいるの?


+ + +



 アスラナ城本宮の地下には、人知れず神殿が設けられている。本来、高位の聖職者しか立ち入ることを許されないその場所に、雨涙の魔女は奥の小部屋を間借りしていた。聖職者が仮眠を取るための場所なのか、薄い木扉の向こうには広いとは言えない空間に簡素な寝台と小さな机が置かれ、古びた燭台が一つだけ備えつけられていた。決して快適とは言えないが、それでも不自由はない。今うかうかと外に出て“彼ら”に見つかることを思えば、こんな場所でも楽園のようにさえ感じる。
 場所が場所なだけに小間使いを呼ぶことはできなかったので、祈りを捧げる神官達に頼んで当面の生活に必要なものは揃えてもらった。その中でも最も優先して用意してもらったのが、占い用の手札だ。
 日頃レイニーが愛用しているものとは異なるが、手札の枚数さえ揃っていれば問題はない。いつものものだって、占い師達の間で流通している一般的なものとそう変わらない。王宮お抱えの占い師がいるのかどうかまでは把握していなかったが、意外なことにものの数時間で手札はレイニーのもとに届けられた。
 早速寝台の上に座って手札を広げてみたのだが、蝋燭の炎に照らされたレイニーの表情は険しい。今はもう黒猫の姿に戻っているスカーティニアが、呆れたように大欠伸をして目を細めた。

「レイニー、そう何度モ占ッタところデ、結果は同じデショ?」
「……分かってるわよ、スカー。分かってるけど、訳が分からないの」

 神の後継者達が目指す場所はあのオリヴィニスだ。占いの結果もそれとぴたりと一致していて、訪れる未来が揺らがないことを示している。だが、そのあとが分からない。
 レイニーは鈍く痛む頭を押さえながら擦り切れた手札を集め、再びばらばらに繰りなおしてから手順通りに寝台に並べた。「机使いなサイヨ」とスカーティニアが零したが、そんなものは頭から無視する。
 一枚一枚捲って確かめてみたが、皮肉なことに何度やっても札の絵は変わらない。

「閉ざされた国、数多の竜、かつての無限、孤独の王、血色の紅玉、溶けない氷、気高き狼……。閉ざされた国はオリヴィニスで間違いない。竜は分かるのよ。かつての無限も、孤独の王も。でも紅玉ってなに? プルーアス? それに氷に狼って……」
「溶けナイ氷? それニ、狼ですッテ……?」

 前足の上に顎を乗せて寝そべっていたスカーティニアが、途端に顔を上げた。



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