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 薄闇の中でレイニーが微笑む。バスィールの方を意味ありげに見るその視線を受け、シエラはルチアが鼻歌混じりに読み進める本を凝視した。
 存在するかどうかも定かではない竜の国について記されているというこの本は、一体誰が書いたのか。本の形になっているのだから、必ず作者がいるはずだ。それは人か、それとも――。
 この本は古代オリヴィニスの言語で書かれたという。だが、オリヴィニスは百年以上どこの国とも国交を持とうとはせず、頑なに交流を拒んできた国だ。だとすれば、どうしてこの本はレイニーの手元にあるのだろう。先ほどバスィールが言っていた友人は、どうしてレイニーのことを知っていたのか。
 導き出される可能性に気づいたとき、雨涙の魔女は慈愛に満ちた眼差しをシエラに向け、たおやかな指先を黄金の目元へと滑らせてきた。睫毛まで白いその姿に魅入られ、言葉は消えていく。

「行きなさい、竜の国へ。世界を知りなさい、神の子よ。――愛されるために」

 愛される、ために。
 耳の奥で潮騒が聞こえた。まるでレイニーの言葉に応えるかのように、波が歌った。愛されるとは、一体誰に。問いかけようとした唇に、白い指先が触れる。
 雨上がりの色を宿した瞳が、どこか悲しげに細められた。


+ + +



 古のつながりを思い出せ。
 朽ちることのない約束を。
 穢されることのない誇りを。
 かつての裏切り者を許すな、探し出せ。
 我らが王の魂を傷つけた者を、見つけ出せ。


+ + +



 地下神殿を出るなり、テュールは小さな竜の身体に戻ってルチアに抱かれていた。変幻自在らしく、己の意思一つで形態を変えることができるようだ。ホーリーでルチアと出会ったときは随分警戒していたというのに、いつの間にかすっかり懐いている。
 サイラスは憑依されたことによって投げ出していた仕事を思い出し、血相を変えて騎士館へと戻っていった。ルチアもテュールを抱いたまま、フェリクスの様子を見てくると言って医務室へと向かったところだ。
 バスィールと二人で廊下を歩いていると、彼は突然足を止めた。錫杖が涼やかな音を立てる。振り返ったシエラに、バスィールは重い口を開いた。

「姫神様は、竜をお望みですか」
「え? あ、ああ。竜の加護を得ることは、きっと私のためになると思う。レイニーもそう言っていたし、この本を読めば竜の国のことも分かるだろう。ジア、読むのを手伝ってくれるか?」

 銀の泉に一滴だけ紫を垂らした、星の光のような色の瞳がシエラを射抜く。バスィールは出会ったときからその表情を大きく変えることはなく、読み取れる感情は少なかった。けれど今、彼は珍しく苦悩しているように見えた。シエラでさえそう感じるのだから、心の機微に敏いライナやユーリであれば、もっと明確になにかを感じ取っただろう。
 声をかけるのも憚られるほどの様相に、シエラも思わず立ち止まってまじまじとバスィールを見上げた。複雑に編み込まれた美しい銀髪が、彼の動きに合わせて揺れる。それほど深く低頭し、オリヴィニスの僧侶は言った。

「はい。姫神様がお望みならば、ご案内いたします」
「え? 案内って……、竜の国がどこにあるのか知っているのか!?」

 竜の国は、幻の国。サイラスがそう言っていたし、シエラ自身、城に来てから読んだ書物によってそれくらいの知識は得ている。途端に抱えた革表紙の本が重みを増した気がした。
 シエラでは読めないこの本は、古代オリヴィニスの言語で書き記されている。そして目の前にいるのは、そのオリヴィニスからやってきた僧侶だ。レイニーは「もうすでに鍵は持っている」と言っていた。鍵とはテュールかこの本そのもののことだと思っていたが、そうではなかったのだろうか。
 早鐘を打つ心臓を本の奥に隠し、シエラはただひたすら息を詰めてバスィールの言葉を待った。

「――竜の住まう国、それすなわち、オリヴィニスにございます」

 そして、扉は開かれん。


+ + +



 王宮は毎日が上を下への大忙しだ。
 アスラナ城の一の郭には来客用の離宮がいくつも点在しているが、それらの屋敷に手を入れ、アスラナはもちろん諸外国の賓客を招き入れる準備をせよとの命令が女官長に言い渡されたのである。長年城に仕えてきた女官長は、冷静かつ迅速に侍女達の采配を取って屋敷を整え、いつでも客人を迎え入れるように完璧に仕事をこなした。


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