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「……まあ、そうね。離れることも覚えないといけないわね。うん、そうね、そうよね。……話は変わるけれど、お嬢ちゃん、アナタ、海神の気配が随分と濃いわ。ホーリーでなにかあったのかしら」
「ルタンシーンに加護を与えられた。この辺りにあの神と同じ模様が浮いていたんだが、今はもう消えてしまったな」

 神父服の上から鎖骨の辺りをなぞったシエラに、レイニーがおかしそうに笑った。

「当然よ、いつまでも痕を残していたら嫉妬されるもの」

 どういう意味かと訊ねる前に、レイニーはまたしても空中から物を生み出した。
 表面が僅かに濡れたそれは、分厚い革表紙の本だ。手渡されて中を開いてみると、シエラでは判読できない文字がびっしりと敷き詰められている。ユーリもやや眉間に皺を寄せていたが、彼らとは対照的に、背伸びをして覗き込んだルチアがぱっと顔を綻ばせた。

「古代語だねぇ! でもこれ、似てるけどホーリーのとはちょっとちがう」
「嬢よ、これはオリヴィニスの古語だ。嬢の国のものと異なるのも無理はない」

 バスィールの指先が文字を這う。

「オリヴィニスの古書ということかい? この本にはなにが書いてあるのかな」
「んとね、えっと、……竜の国?」

 ルチアが追う文字の先に、挿絵があった。地上とも地下とも、はたまた天上とも思えるその場所に、一頭の竜が身体を休めている。竜の大きな身体の下には、山のような金銀財宝が眠っていた。
 竜の国。その言葉が、蓼の巫女から授かった神託を思い起こさせる。かの海神は、蓼の巫女を通してシエラに「竜の加護を得よ」と託した。竜の加護とはどういったものなのかも知らせず、けれどそうしなければならないと思わせるに十分な重みのある言葉だった。

「竜の国っつっても、場所なんざ一切不明の“幻の国”っしょ? それがまたなんでオリヴィニスの古語で書かれてんだか。――魔女さん、これ、なんの本っすか?」
「その小さなお嬢ちゃんが言った通りよ。竜の国について記されてあるわ」
「これをどうしろと?」
「どうとでも。あげるから好きになさいな。どうせホーリーの海神に、竜の加護を授かるようにと言われたんでしょう?」

 もともとはスカーティニアの持ち物だったのか、レイニーは翼の生えた黒豹に「あげてもいいわよね?」と確認していた。スカーティニアの方は随分と不服そうにしていたが、それでも微かに頷いたのだ。
 シエラには到底解読できない本だが、専門家に見せれば翻訳してくれるだろうし、そもそもルチアとバスィールがいれば専門家など必要ないかもしれない。

「そんなことまで分かるなんて、“視えた”のか?」
「いいえ。これはただの勘」

 「当たりだった?」と笑うレイニーからテュールを返され、シエラは小さくて柔らかい身体を再び抱き締めた。宝石のように光る左右異色の瞳がまっすぐに見上げてくる。
 ルタンシーンに示された、竜の加護を得よとの神託。人化した時渡りの竜。そして、魔女に差し出された竜の国について書かれた書物。この世界には竜が溢れている。
 王都に来てからつい最近まで、シエラの最も近くにいたのも竜だった。黄金(きん)の竜と呼ばれる騎士だった。その輝きを思い出したところで、特に胸は騒がない。まるで遠くから己を見ているような、不思議な感覚だった。どこかで痛みを感じる自分がいるはずなのに、分厚い氷の中に閉じ込めてしまったかのように、今ここにいる自分はなにも感じない。
 願ったり叶ったりだ。訳の分からない痛みに苛まれて病むことなど、あってはならないのだから。
 
「竜の加護が欲しいのなら、竜の国へ行くことね。加護を与えられるのは、神竜の眷属だわ。彼らは竜の国以外には生息していないから」
「その竜の国の場所は、明らかになっていないはずだけれどねぇ」
「あら、聡明な王さまの発言とは思えないわね。なんのためにその本を渡したと思ってるの? ――それに、アナタ達はもうすでに“鍵”を持っているわ」

 竜の国とは一体どこにあるのか。多くの幻獣学者がその場所を探すが、未だに判明していない。幻獣界最強種族と名高い竜族は群れを成すのか、個で暮らすのか。彼らの生態は明らかになっておらず、この本も垂涎ものの一冊なのだろう。
 本当に竜の国が存在するのだとすれば、それは人類未踏の地を目指すこととほぼ同義だ。

「鍵と言われても、この本にその場所が書いてあるのか……?」
「それはおまけみたいなものよ。でしょう、バスィール?」


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