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「ここは、八日前に報告のあった場所です。そのときも被害はなく、犬のような獣を見たとだけのことでしたが……」
「それって、おんなじ魔物ってことじゃないの?」
「……おそらくは」

 ライナが渋面を作り頷いた。小さな舌打ちの音が聞こえて視線を上げれば、そこには眉根を寄せるエルクディアが地図を睨みつけている。
 どうしたの、と尋ねたのはラヴァリルだった。

「まいったな……よりにもよってウルフ系か。まあ有体なだけマシだけど……」

 ルーンやセルラーシャに聞こえないくらい小声で零された言葉は、随分と弱気なもののように感じた。果たしてこれで王都騎士団総隊長などという、仰々しい肩書きが務まるのだろうかと考えていると、その疑問を代弁するかのようにラヴァリルが小首を傾げた。
 意味もなく二人で目配せしたのち、ラヴァリルの方がのんびりとした緊張感に欠ける声音で問いかけた。

「ねえ、えるくん。なんでウルフ系だとまずいの?」
「……追いつかないんだよ、剣が」
「総隊長なのに?」
「騎士はもともと、人間相手に剣を振るうよう訓練されたものです。言わば魔物は専門外。わたし達とは比べ物にならない反射神経、運動神経を持っているエルクでも――敏捷な魔物だと不利ですね」

 エルクディアの代わりに援護したライナが、難しい顔をしたまま「ですが」と続けた。

「聖職者側(こちら)としても、浄化の力を持たない騎士兵士のみなさんに斬ってもらうのは遠慮したいところなので、問題ありません。足手まといにさえならないのでしたら、それで十分ですから」

 笑顔でさらりと放たれた言葉は、容赦なくエルクディアの心を抉ったらしい。人目がある手前微笑んではいるが、その口端が小刻みに震えているのはどうしようもなかった。
 ライナが言ったことはすべて正論なので反論のしようもないのだ。

 騎士は元来、人間との戦いを専門とする。己が定めた主、または国のために命を賭して剣を振るうのが騎士という生き物だ。
 いくら戦闘能力に長けていても、力の使い道がまったく異なるのだからどうしようもない。
 不可能ではないが可能とは言い難い――それが聖職者以外が魔物と退治する際の定義とも言えた。言うなれば、万年筆で穴を掘るようなものなのだ。
 どれほど書き味の優れた高価な一品であっても、農民の誰もが持っているような安物の鍬や鋤には敵わない。 

「ではまた、明日こちらに伺ってもよろしいでしょうか?」
「そりゃあうちは構わないけど……ああ、明日なら夕方からにしてくれるかい? 朝はちょいと野暮用があってね」
「分かりました。では明日の今頃、またお伺いします」

 外は既に日が傾きかけ、遠くに見える海の水平線上を赤く染め上げていた。
 手早く帰る準備を整え始めたライナの意思を汲み取ることができたのはエルクディアだけで、残されたシエラとラヴァリルはきょとんと二人を見ることしかできない。
 ライナは彼らに礼を言い、一人ひとりに聖水の小瓶を手渡していた。――その意味をシエラが知るのは、もう少しあとのことだ。
 地図を折りたたんで軍服の胸元に仕舞い込んだエルクディアを見つめている視線があることに気がついたちょうどそのとき、ライナの悲鳴にも似た声が店内に響き渡った。


+ + +



 光に奪われた視界を補うように、闇が舞い降りた。血塗られた叢生に身を潜めた影が、音を立てずに歩を進める。
 世界の瞼が下ろされ始めた頃、影が瞼を押し上げる。
 二つの影が同時に空を見上げて、まばゆいばかりの光を反射する月を引っ掻く仕草をした。当然空振りに終わるそれを飽くことなく繰り返し、影の片方が、「くあ、」と欠伸を噛み殺す。

『聞イタ?』
『ウン、聞イタ』
『明日ダッテネ』
『明日ッテナンノ日?』

 よく聞かなければ同じ声が問答を繰り返しているようにも聞こえる。影は向き合い、残虐な牙を覗かせながら声を合わせた。


『明日ハ、月ガ満チル日』


+ + +



 もしもこの世界に空と海が溶け合う場所があったとしたら、それは口では言えないくらい美しい光景なのだろう。
 どんな偏狭の地だろうと人々は足を運び、労を重ね、金を積み、そしていつかその土地を巡って血を流す。
 けれどその想像しがたい美しさを身に宿した者がいたとすれば、どうだろうか。

 人々はこぞってその者を褒め称え、敬い、丁重に扱うだろう。
 中には「物」と同じように金を積み、奪おうとする輩も出てくるかもしれない。そしてその者が、世界でただ一つの力を備えているのだとすればなおさらだ。

 面紗(ベール)の隙間から覗く蒼い髪は、選りすぐられた絹糸のようにさらさらと零れ、小さな顔に配置された目鼻立ちは国一の細工師が彫った人形よりも遥かに整っていた。
 彼女の容貌は、「ように」という比喩表現でしか表せない壮麗さを帯びていた。
 単純に綺麗だと思った。だが同時に、どこか恐ろしくも感じた。
 それは彼女が計り知れない力を秘めているからなのか、いずれ人ではないものになるからなのか、よく分からない。
 分からないからこそ、疑懼(ぎく)の念が拭えない。
 セルラーシャは、ぼんやりと神の後継者の後姿を眺めた。初めてライナが来たときも同じように驚いたが、神に関係する者達は皆、こうして美しい容姿を得ることができるのだろうか。
 今まで何度か聖職者を見てきて一概にそうとは言えないことを知っているが、やはりそのように思ってしまう。

 ライナと会ったのは、もう随分と昔のことだったような気がする。まだそのときの彼女は王立学院生で、神官見習いだったのだ。
 あのとき見た銀髪の衝撃は大きかった。それまで何度か聖職者を見たことはあっても、あれほど間近でお目にかかったことなどなかったからだ。
 今思えばライナは確かに愛らしいけれど、「絶世の」という枕詞はつかないだろう。それはきっと外見だけの問題ではなくて、彼女の内面が表に出た愛らしさだろうからだ。

 疲れた顔をしていても、この店にやってくれば彼女はたちまち笑顔になった。
 母マーリエンと楽しそうに会話をし、幸せそうに紅茶を飲んで一息つく。そして彼女はまた城へと戻っていくのだ。
 今回やってきたのは彼女だけではない。共に訪れたのは、神の後継者と王直属の騎士、それからやたらと派手な女性――なんでも魔導師らしい――だった。
 誰も彼も見目麗しく、顔でより集めたのかと妬んでしまうほどの威圧感がある。円卓の上に広げた地図と睨み合っている彼らを黙って見つめながら、セルラーシャは己の手に目を落とした。
 隣ではルーンが呑気に欠伸をする。

「ねえルーン。お城ってどんなとこなのかな」
「さあ……特別な日じゃなきゃ行けねぇからなあ。まあ、生きる分には一切不自由しないとこだろ」
「そっか」

 気がつけば、ライナは母に明日また来ることを告げていた。そのあと小さな瓶を渡され、万が一のときのために持っているようにと、優しく諭すように言われた。多分中身は聖水だ。
 低級な魔物であれば、聖職者ではなくても聖水を振り掛ければある程度は逃げていくらしい。



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