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 身を乗り出し、シエラはエルクディアの腕を掴んでいた。二人の時間がぴたりと止まる。絡み合った視線は、もうかつての和やかさを想起させてはくれなかった。
 両手で捕まえたエルクディアの右腕は、シエラのものと比べると遥かに逞しい。硬い感触に、またしてもじわりと目の淵が熱を持つ。
 必死で絞り出した声は、自分でも予期せぬ言葉を紡ぎ出していた。

「……昨日の、」
「ああ……。昨夜は、……尊い祝福をお与えくださり、ありがとうございました。シエラ様のお導きにより、軍議も纏まり、士気も再び高まっております」

 神の祝福。
 それ以上でもそれ以下でもなく、あの口づけには祝福以外の意味はない。
 なんの役にも立たない口づけを祝福だと、彼は言う。尊いものだと。ああ、そうだ。あれは祝福であって、口づけなどではなかった。そんなものであるはずがなかったのだ。
 世界が凍る。その痛みに、誰かが泣いている。

「……返せ」
「え?」
「返せ。どうせまた、出陣するときに“祝福”してやることになる。だから、今、返せ」
「返せ、とは、どういう……」

 腕を引き、胸倉を掴んで引き寄せた。肌に吐息が触れる。

「――返せ」

 祝福を。
 唇に宿したものを、唇に。
 睫毛の際さえ見える距離で、エルクディアが目を瞠る。薄闇の中で零れ落ちそうなほど見開かれた新緑の瞳は、確かにシエラを映していた。互いの呼気が感じられる中、鼻先が軽く触れ合った。
 唇の上に微かな熱を感じ、――けれどなにも触れることなく、熱は遠のいた。
 あの日と、同じように。

「……お戯れを、シエラ様。どうか、もうお休みください。私は御前を失礼いたします」

 シエラをそっと遠ざけた手が、離れていく。あの手は一度も自分からシエラに触れようとはしなかった。
 癖なのかと聞きたくなるほど、あの手は頻繁にシエラの頭を撫でていたくせに。許可などなくとも、簡単に触れてくるくせに。
 祝福の代わりに与えられたのは、拒絶だった。


+ + +



 貴女、どうして、くちづけないの。
 愛しいのなら、くちづけて。
 美しいまま、閉じ込めて。
 愛し子封じる氷の柱。
 貴女の柱は、まだからっぽ。


+ + +



 走り去るシエラを引き止められる者は誰もいなかった。まるで刺されたような顔をして痛みに耐えていた彼女は、今頃どうしているのだろう。
 真っ先に追いかけるだろうと思われたルチアは、一度だけ心配そうにシエラを呼んだが、それでも足を動かそうとはしなかった。幼い少女はシクレッツァに薬草の指定をし、具合を確かめながら調合していく。この少女の方がよほど大人びていると、無意識に比べてサイラスはそう思った。
 フェリクスにつきっきりになるわけにはいかないシクレッツァは、もうすでに退室している。部屋には眠ったままのフェリクスと、付き添うソランジュ、ルチア、サイラス、そして数人の医官が残されていた。
 濡れた声が柔らかくフェリクスを呼ぶ。目覚めを待つ声はどこまでも清らかだ。
 薬の調合を終えたのか、ルチアがふうと息を吐いた。

「これ、三時間おきに飲ませてあげて。血を増やすこーかもあるから、これでだいじょーぶだと思う。もしもまたしんぞー止まったら、すぐに呼んで」

 小瓶に薬を移し入れながら、どきりとすることを平然と言う。これが本当に子どもなのだろうか。大きな漆黒の瞳はただの子どものものではなく、命が目の前で失われることを知っている目だ。
 フェリクスの手を握っていたソランジュが、噛み締めていた唇をほどいた。

「……あなたは小さいのに、なんでもできるんだね。あの人は神の後継者なのに、大違い」
「ソラちゃん、そういうことは言うもんじゃない」

 ソランジュの口調にははっきりとした悪意が含まれていた。だが、それを責めるだけの資格をサイラスは持ち合わせてはいない。
 なんとか平静を装っているが、サイラス自身、ルチアの“体質”を聞かされたときは説明のつかない思いが胸中を渦巻いた。この小さな子どもは薬師としての知識に長けているだけではなく、毒を体内で生成し、自在に操ることができるのだという。確かにその体質が知れ渡っていれば、フェリクスの毒に関してもすぐさま対処できたのかもしれない。どうして知らせてくれなかったのかと、一度も思わなかったと言えば嘘になる。
 だが、普通に考えてそれはできなかった。ルチアの体質について公表しなかったアスラナ王の判断は正しい。サイラスとて、隠しきれない嫌悪感を抱いたのだ。彼女の意思一つで屈強な軍人さえあっさり死に追いやれるのだと知れれば、誰も彼女に近づきたがらないだろう。それどころか、城に置いておくことなどできるはずもない。
 頭では理解できる。あんな“危険物”を表沙汰にすることはできない。そうはいっても、サイラスに理解できることをソランジュにも理解しろというのは無謀だった。
 ソランジュは救い手だ。命を拾い上げ、繋ぐ者だ。薬は毒となり、毒は薬となることを知っている。知ってはいても、“薬”しか扱ったことのない者だ。助けることだけを常に考えている彼女にとっては、やり場のない怒りがシエラに向くのも仕方のないことなのかもしれない。
 泣き腫らした目でフェリクスを見つめるソランジュに、ルチアは作業の手を止めてぽつりと言った。

「――あなたは大きいのに、なんにもしないんだね」
「なっ……」

 サイラスですらぞくりとするような冷ややかな眼差しで、ルチアはソランジュを見る。



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