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 ――失念していた。毒と聞いた時点で、ルチアを頼るべきだった。
 どういうことかと説明を求めるソランジュ達にルチアが自らの体質を説明すると、驚いたようにシクレッツァとサイラスが溜息を洩らした。だが、そんな中、射るような視線がシエラに突き刺さる。

「どうして? どうして、言ってくれなかったんですか、シエラ様! シエラ様はこの子が毒を読めることも、先生が毒を浴びたことも知っていたんでしょう!?」
「それ、は……」
「なんで!? どうしてよっ……! どうしてなにもしてくれないの!? あなたは奇跡を呼ぶんでしょう!? 神の後継者様なら、今すぐ先生を助けてよ!!」
「ソラちゃん!」

 ふらつく足取りでやってきたソランジュは、目の前で膝をつくなりシエラの両肩を力強く掴んだ。激しく前後に揺さぶられ、視界が揺れる。悲痛な声が突き刺さり、胸を抉る。零れたソランジュの涙がシエラの寝間着を染めていく。
 止めようとするサイラスの手を振り払い、ソランジュは文字通り目と鼻の先で叫んだ。

「あなたにっ! あなたにとっては、この人はただの人間かもしれないけど! 私にとっては、誰よりも大切な人なの! ねえ、なんで助けてくれないの!? なんでここにいるの!? なにもしてくれないくせにっ! なにもできないのなら、してくれないのなら、出ていってよ! あなたの顔なんて……蒼い髪なんて、見たくもない!!」
「ソラちゃん、やめなって!」
「アルオン、控えよ」

 サイラスの感情的な声と、シクレッツァの淡々とした声が、ぴたりと重なる。二人の男に脇から抱え上げられたソランジュは、あっさりと引きずられるようにしてシエラから離された。シエラと比べても小柄な女性だから、男の――それも軍人の手にかかれば片手で十分だろう。それでも今の彼女は、必死に身を捩って拘束から逃れようと躍起になっている。
 あまり親しく話した覚えはない。だが、姿を知らないわけではなかった。記憶にあるのは、丸くて柔らかい空色の瞳だ。その顔に浮かぶのは穏やかな表情で、熱っぽい瞳がいつだってフェリクスを追っていた。
 それが、今はどうだ。血走った双眼からは枯れることなく涙が溢れ、顔をぐしゃぐしゃにして小さな唇が呪詛を吐く。

「あっ、あなたのせいで、先生は!!」
「いい加減にしろ、アルオン!」

 「あなたのせいで先生は」、――その先に続く言葉を想像し、シエラは震えあがった。気がつけば、座り込んでいた床から這うようにして立ち上がり、医務室を飛び出していた。サイラスとルチアの静止が聞こえたような気もするが、立ち止まる気にはなれなかった。
 心臓が暴れている。つい先ほどまでフェリクスの中ではぴたりと止まっていた臓器が、今のシエラの胸の中ではどくどくと激しく脈打っている。冷えた廊下をひた走る。途中で盛大に転び、血相を変えた兵士に抱き起こされたが、起き上がるなり再び駆け出した。
 走って、走って、喉の奥から血の味がするまで走って、ようやっと自室へと辿り着いた。途中で靴が脱げ落ちていたと気がついたのは、ベッドに倒れ込んだときだ。
 頭の中でどくどくと血の流れる音がする。心配げに擦り寄ってきたテュールを抱え、シエラは膝を抱えて蹲った。
 世界がひどく暗い。耳の奥にソランジュの悲鳴がこびりついて離れない。きつく瞼を閉ざしても、怒りに染まった瞳がこちらを睨んでくる。
 ソランジュの言うことはもっともだった。どうしてすぐにルチアを呼ばなかったのか。どうしてなにもできないのに、あの場についていってしまったのか。自分が無力であることは嫌というほど思い知っているはずなのに、どうやらまだ足りないらしい。
 自分は、逃げたのだ。罪を責められることに耐え切れず、ソランジュの前から逃げ出した。これのどこが“奇跡の子”だ。なんの知識も力もなく、消えかける命に怯えて座り込むしかできなかった。
 苦いものが、零れていく。
 静かに扉の開く音が聞こえ、近寄ってくる人の気配を感じた。だが、今の状態では到底顔は上げられそうにない。抱えた膝に顔を埋めたまま、シエラは唇を噛み締めた。
 胸が痛い。情けなさに死んでしまいたい。

「っ……」

 すぐそこに立つ気配はそれ以上近づくことも、遠ざかることもなかった。
 心がそのぬくもりを求めている。大きな手が恋しい。あの手で頭を撫でて、「大丈夫だ」と言ってもらえたら、それだけで呼吸が軽くなるのに。苦しくて苦しくて、今にも溺れてしまいそうだ。痛い、つらい、苦しい。どうか、この暗闇から引っ張り上げてほしい。
 けれど、望む人がそこにいるはずがない。ともすれば嗚咽に聞こえそうな声で、シエラはそっと呼びかけた。
 ――エルク。

「ジア……」

 心の中で紡いだ名とは別の名が、唇を割って音になる。そこにいて欲しい人の名ではなく、そこにいるはずの人の名を呼んだ。
 けれど返事はなく、かすかな衣擦れの音が聞こえただけだった。
 腕の隙間からひょこんと顔を出したテュールが、小さく、本当に小さく鳴いた。その声が気遣うようなものだったので、シエラは不思議に思いながらゆっくりと顔を上げた。
 眦から、雫が落ちる。それを拭おうと持ち上げた手は、途端に凍りついた。

「え……」

 ――どうして。
 暗がりの中、そこに立つのはバスィールではなかった。極彩色の僧衣も、流れるような銀髪もない。あるのは見慣れた深藍の軍服、輝く金の髪に、瞳は新緑。
 エルクディアが、そこにいた。

「なん、で……」
「……許可もなく寝所まで立ち入り、申し訳ございません。ただ、廊下でお見かけした際のご様子が気にかかったものですから」
「える、く」
「フェリクスのことは聞きました。ですが、ご心配には及びません。あの男は殺しても死なない男です。大丈夫。数日もすれば、目が覚めるなり腹が減ったと喚き出しますよ」
「エルク」
「シエラ様。お疲れでしょう。もうお休みください。お一人でおられるのが不安でしたら、ライナか……マクトゥーム殿をこちらへ、」
「エルク!!」



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