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 手綱が手首に絡まり、ぎりりと締めつけられた。身体が鞍から投げ出されると同時に、激しい痛みが腕を走る。なんとか身を捩って手綱を掻き切ったものの、ミューラの身体は受け身を取る暇もなく地面に叩きつけられていた。
 息が詰まる。眩んだ視界に、銀の光が飛び込んできた。
 そのとき腕が動いたのは奇跡に近い。短剣を握った右手に、温かいものが伝い落ちてくる。鼻先が触れ合うほど近くに、ヴィシャムの端正な顔立ちがあった。

「――さすがだな」
「こっちの台詞よ。普通、聖職者が対人戦で法術を使う? 非常識極まりないわね」
「それを言うなら、魔導師が魔物を使って国にケンカを売る方が非常識だと思うがな」

 にっと口の端を吊り上げるヴィシャムの目元がさすがに苦しげに歪み、ミューラは愉悦に綻ぶ表情を隠しきれなかった。
 苦しいはずだ。痛いはずだ。彼の左肩には、ミューラが握り締めた短剣が深々と突き刺さっているのだから。
 刃を通して伝ってくる赤い液体が、小さな手のひらを染めていく。その熱よりもずっと熱い痛みが、己の喉元で存在を主張していた。地面に投げ出されたミューラの身体を組み敷いたヴィシャムは、自分の肩と引き換えにミューラの喉に短剣を突きつけていた。喋った拍子に皮膚を切り裂いたのだろう。じくり、焼けるような痛みが走った。
 こうなってしまっては、ミューラがヴィシャムの命を奪うことは不可能に近い。魔術を放とうとしたところで、術が完成する前に首を斬り落とされるだろう。今や主導権は完全に彼の手の内だ。

「殺さないの?」
「殺したいさ、今すぐにでも」

 痛みに耐える声が、耳元に落ちる。
 ――ああ、神よ。見てごらんなさい、貴方の愛する子どもは私の手で苦しんでいる。
 恍惚とした笑みがミューラの顔に広がっていく。頬に口づけられてくすぐったさに身を捩れば、ヴィシャムの呼吸が一瞬乱れた。
 他人が見れば、自分達の関係を異常だと言うだろう。恋人同士であるはずがないと、そう言うかもしれない。だが、二人にとって他者の評価などどうでもいいことだった。お互いがお互いに殺意を抱き、傷つけあうことで欲望を満たそうとする。一方的ではなく、双方向に向けられた歪んだ愛情だ。誰にも口を挟ませはしない。
 たった二人きりに思えた戦場で、一発の銃声がやけに大きく響いた。ミューラの左肩に、焼けた鉄を押されたような熱が宿る。喉を迸った悲鳴は口づけに飲み込まれていった。痛みに零れた涙を舌先が拭う。湿った土の匂いに、血の臭いが混ざっていく。

「おそろ、い、ね……」

 ヴィシャムの肩に食い込ませた短剣を捩じろうと、震える手に力を入れたときだった。雷鳴すら掻き消してしまいそうなほどの喧騒に塗れた戦場に、引き上げの鐘が鳴り響く。
 はっとして意識を向けると、それは国王軍側のものだった。副隊長らしき男が撤退を叫んでいる。地面に倒れる二人の周囲を、馬が、人が、駆けていく。土煙に呑まれながらも、ヴィシャムは動こうとはしなかった。

「ねえ、どうする? このまま続き、していく?」
「魅力的な誘いだが、俺も一応は雇われの身だからな。――また今度だ、ミューラ」

 口づけながら、ヴィシャムはミューラの首に刃先を滑らせた。まるで首輪のような線が浮かび、血が垂れる。唇が離れると同時、ヴィシャムは跳ね起きるようにして身を起こし、ミューラが突き立てた短剣を肩に生やしたまま馬に跨って駆けていった。
 ミューラもまた身体を起こそうとして、左肩に走る激痛に呻いて力なくその場に身を投げ出す。荒い呼吸を繰り返すたび、熱いのか冷たいのか分からない空気が喉を刺していく。
 あのとき響いた銃声は、ラヴァリルが放ったものだろうか。だとすれば彼女は、課せられた任務を全うしたのだろう。安堵と疲労に四肢が絡め取られ、泥濘に沈むような重みを感じた。
 誰かが駆け寄ってくる。仲間の誰かだろう。必死にミューラの名前を呼んでいる。それがラヴァリルのものではないことを少し残念に思いながら、ミューラは差し出された腕を取って学園へと帰還した。

「……ああ、気持ちよかった」

 その呟きを耳にした仲間達は、ひどく怪訝そうな顔をしていたけれど。


+ + +



 それは、祝福。
 神が与えたもうた至上の愛。
 なのにどうして、貴方、喜ばないの。
 どうして、貴方、苦しんでいるの。
 
 どうして、どうして。
 貴方、祝福されたのに。



 その後、軍議はそれまでの滞りが嘘のような流れで纏まり終えた。今や室内はしんと静まり返り、ひと気を感じさせない。未だ席に座り続けているのは、王都騎士団総隊長のエルクディアだけだった。
 新緑の瞳はなにを見つめているのだろう。あの瞳が驚愕に瞠られる様を、ユーリは間近で見ていた。
 ――神の後継者が祝福を与えた、その瞬間を。
 淡く色づいた薔薇のような唇が乱暴にエルクディアに押し当てられたそのとき、彼はなにを思ったのだろうか。
 神の後継者がもたらす口づけは祝福となり、授かった者にとってはこの上ない名誉となるはずだった。他の者であれば喜びに打ち震え、快味を噛み締め頬を染めただろう。
 だが、祝福を受けたはずのエルクディアは唖然とし、魂が抜けたような面持ちで彼女を見つめていた。シエラが退室しても軍議は続いたが、その間中、エルクディアがまともに喋っていること自体がユーリには不思議だった。

「エルク、……大丈夫かい」
「次の出陣は三日後だ。聖職者側の編成さえ間に合えば問題ない」

 淀みなく返事をするくせに、その目はユーリを見ない。王都騎士団総隊長とエルクディア・フェイルスが乖離しているかのような様子に、背筋に冷たいものが滑り落ちる。
 玉座を離れて近づけば、エルクディアの拳が膝の上で強く握り締められているのが見えた。それが意味するものを想像し、堪え切れない溜息が漏れる。


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