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――要するに、彼らは怖いのだろう。
得体の知れない魔物も、人を穿つ特殊金属も。猛勇さにかけてはアスラナ随一と言われる十番隊の隊長が倒れたこともまた、原因の一つとなっている。士気が下がっては勝てる戦も勝てない。頑強な岩のごとく統制の取れた王都騎士団の団員でさえ、今現在、エルクディアを騎士長とすることに意見が割れているほどだとも聞いている。
まさに時機が悪かった。様々な負の要因が重なり合い、今のアスラナは雁字搦めの状態になっている。
固い表情のシエラを見て、ユーリが唇だけでなにかを言った。謝罪か、慰めか。そんなものはどうでもよかった。
「エルクディア、跪け」
「え?」
「早くしろ。今ここで、私の前に跪け」
公爵すら感心する優雅さでシエラの前に膝を折ったエルクディアは、許しを得るまで顔を上げようとはしなかった。シエラが短く命じると、新緑の瞳が彼女を映す。
芽吹いたばかりの青々とした緑の中に、蒼い自分が映っている。シエラはそんな様をぼんやりと見つめ、まるでリーディング村の湖を覗き込んでいるようだと感じた。あの湖は透明度が高くて、決して緑などではなかったけれど、初夏の頃は木々の色を映し取ってこんな色に染まっていたのだ。
そんな感傷は放り捨て、シエラは真摯に見上げてくるエルクディアのスカーフを一思いに掴んで引き寄せた。一瞬の衝撃にさしものエルクディアも耐え切れず、身体が揺らぐ。
「ッ……!」
勢いに任せて重ねた唇は、触れ合わせると言うよりもぶつけると言う方が正しかった。歯がぶつかった拍子に唇の内側を切ったのか、口の中に血の味がじわりと広がっていく。いつの間にか嗅ぎ慣れた血の臭いだった。何度味わってもいいものとは思えない。
どうやら唇を切ったのはエルクディアも同じだったらしい。僅かに開かれた唇の端から、赤い線が零れている。
驚愕に瞠られた新緑の瞳が、すぐそこに揺れていた。
「そこの神官、答えろ。私の名は」
「しっ、シエラ・ディサイヤ様です……!」
「では、六番隊隊長オリヴィエに問う。シエラ・ディサイヤは何者だ」
「神の後継者様であらせられます」
シエラ・ディサイヤは、この世で唯一無二の存在だ。
玉座へと振り返り、シエラは壇上の人を見上げた。
「ならばユーリ。このアスラナが王に問う。神の後継者のくちづけは、なにを意味する」
「……神の祝福だね」
――そうだ、それでいい。
優しいぬくもりはなにもなかった。じんとした痛みと血の味だけが、今もこの身に残っている。口づけとはどんなものか、結局シエラは知らないままだ。
ユーリが望んだことを、自分は達成できたのだろうか。大切な友人達を傷つけぬ道を選べただろうか。この後の一言で、シエラは最も近しいと思っていた友人を戦地へ送ることになる。それが正しいことなのか、判断できようはずもない。
けれど、動かねば変わらない。最善の道を選ばなければ、彼は余計に茨の道を歩むことになる。なら、ほんの少しでもその茨を払う手助けができればいいと、そう思った。
誰がなんと言おうと、現在の王都騎士団総隊長はエルクディアだ。呆然とするその間抜け面を笑ってやりたいが、今の自分はしかつめらしい表情を作らなければならない。
「エルクディア・フェイルス。――お前は、神の後継者の騎士だ」
くちづけを。
私が私であるために。
「……シエラ?」
くちづけを。
貴方が貴方であるために。
「よく聞け! 私は今、アスラナが誇る王都騎士団総隊長に神の祝福を与えた。この男が率いる王都騎士団に敗北などありえない! すべては神の御名のもとに許される! 悪しき魔物を聖へと導け、悪しき者から高潔な魂を守れ! なにも恐れることはない! 神の祝福を授かりし竜騎士の剣に続く限り、汝らは決して闇に呑まれぬ! 剣を取れ、十字を掲げよ! 我が前に勝利を捧げよ!」
高らかに宣言すれば、神官の一人が席を立ってその場に跪いた。それに祓魔師が続き、騎士達も倣って膝を折る。数秒の沈黙ののち、わんと銅鑼が割れるような喝采が轟いた。最初に声を上げたのは白黒両将軍だ。互いに手を取り合い、「やってやりましょうぞ!」と笑い合っている。
諸侯らは未だ複雑な顔をしていたが、金の瞳で一睨みすれば彼らは皆揃って身を縮こまらせた。ユーリにいたっては、申し訳ないような、感謝するような、そんな複雑な顔をしている。
そのときシエラは室内にいるすべての人間の顔を見て回ったが、ただ一人、まともに見れぬ者がいた。今もまだ眼前に跪くエルクディアの顔だけは、どうしても見ることができなかった。
くちづけを。
私と貴方を隔てるために。
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