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 覗き込んだ顔は汚れて真っ黒になっていたが、この顔をソランジュが見間違えるはずがない。胸に鉄の器具を差し込んで銃弾を取り除かれても、フェリクスはぴくりともしなかった。足の包帯は意味がないほどに赤く染まり、左腕は言うまでもない。
 半人前でも分かった。今この人が命を繋ぎ止めていることそのものが、奇跡に近いのだと。

「出て行かないのなら邪魔をすんじゃないよ、ソランジュ。いいかい、今は一刻を争うんだ。――シクレッツァはまだかい!?」

 シクレッツァ・ウアリが率いる十二番隊は、医学の道にも精通している。戦で負った傷は彼らの方が詳しいこともあり、軍医を目指す医官は彼らの下につく。
 だからこそ、ソランジュは知っていた。この状態でシクレッツァを呼ぶ意味を。
 理解すると同時、全身がガタガタと震え始めた。耐え切れずに尻餅をつけば、邪魔だと怒鳴られ部屋の隅に追いやられる。目の前が真っ暗になり、次いでフェリクスの笑顔がよみがえった。自分は死なないと、そう笑っていたあの人が、今は遠い。

「ま、まって、待ってください……、ウアリ隊長を呼ぶだなんて、そんな、」

 剥ぎ取られた甲冑と衣服は、触れるのも躊躇うほど赤黒く汚れている。剥き出しの腕は、ちらと見ただけでも重傷そのものだった。肉が食いちぎられ、骨らしきものが見えていた。なにより、近くに寄れば血の臭いに混じって強烈な腐臭が鼻を突く。
 待っている暇などない。ありはしない。ソランジュが口を挟めることではない。だのに、口が否定の言葉を吐く。

「やかましいっ! 切らなきゃどうしようもないんだよ!」
「でもっ! その傷は魔物によるものなんでしょう!? だったら、だったら神官様を呼んでください! そうすればっ」
「ンなこたぁアンタに言われなくてもやってんだよ! 確かにこの傷は魔物に食いちぎられたもんだ。でもね、牙に毒があったのかなんなのか、もうとっくに壊疽が始まってんだ! 神官が治せんのは魔物が与えた傷だけなんだとよ!」

 それでも、食いちぎられた肉を完全に治すことはできなかった。毒を浄化しきることはできなかった。もしかすると、その毒は魔物によるものではなく、魔導師側が人為的に仕込んだものかもしれないとまで言う。
 アスラナではまだ遠い春の空に、雨が降る。頬を濡らす涙を拭おうともせず、ソランジュは力なく首を振った。

「……そうだ、シエラ様を! シエラ様を呼んでください! あの人なら治せるでしょう!? あの人は、神の後継者だもの!」
「無茶をお言いでないよ! この壊疽はもう魔物によるもんじゃない。つまりは神の後継者様でも治せない!」
「そんなっ、そんなの嘘!! なんとかなるはずでしょう!? だって、だってあの人は、奇跡の子じゃないの!?」

 蒼い髪に金色の瞳。今まで見た誰よりも美しく、特別な力を持って生まれてきた神の子。彼女は奇跡の子だと言われている。この世を救うことができる、唯一の人だと。
 ならばなぜ、助けられない。奇跡を起こすのではないのか。世界を救えるのなら、傷ついた人間の一人くらい容易いものだろう。前髪から滴る消毒液が涙と混ざり、床に落ちる。神はどうして、この声を聞き入れない。

「やめて……、お願い、切らないで。せんせいを、これ以上、傷つけないで」

 逞しい腕だった。優しく抱き締められたことはあまりない。それもそうだ。自分達は恋人同士ではないのだから。
 けれど、あの腕で何度も頭を撫でられた。時には子どものように抱き上げられて、女として見てもらえない自分にやるせなくなることもあった。ソランジュよりも遥かに太く逞しいこの腕に抱かれる日を、ずっと夢見ていた。この腕が剣を持ち、手綱を捌く姿が、好きだった。
 叶うことなら、零した呼吸の一つすら自分のものにしてしまいたいと思っている。流す血の一滴も、すべて。視えもしない神などに、ましてやおぞましい魔物などに、この人の腕をくれてやるのはあまりにも惜しい。


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