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深々と礼をして退室していったフィーネの姿を見送って、クレシャナはぽかんと口を開けたまま棒立ちになっていた。一度は乾いていた涙が、またしてもじんわりと滲んでいく。
――国王の好む花が、ララ?
まさか、そんなはずはない。ララの花は確かにとても愛らしいけれど、どこにでもある花ではない上に、薔薇や百合と比較すればあまりにも地味な花だ。ましてや人の手で栽培するなどあまりにも難しく、クレシャナとて海に潜ったときに眺めることでしか見たことがない。たまに摘んで持って帰ったりもするが、海から引き揚げればララの花はすぐに萎れてしまうのだ。
これは偶然なのだろうか。海から離れた王都に住まう国王が自室にララの花の絵を飾り、城内ではその栽培までしている。これではまるで、クレシャナを捕らえるための檻ではないか。
「ジルは、なんと言うでしょうか」
花瓶の中に揺れるララの花を見せたら、きっと驚くに違いない。
けれど自分は、青い海の中で揺れる花を見たいのだ。
+ + +
状況を聞かされた誰もが、一言めに「嘘だ」と言った。
それほど信じられないことだった。王都騎士団の中でも最も勇猛果敢と知られる十番隊が、援軍を要請する間もなく撤退してくるなど、かつての帝国戦争時ですらありえなかったことだ。
血と泥に塗れた伝令が息を切らせてエルクディアに報告してしばらく、幼子が見れば泣き出しそうな形相のサイラスが門扉をくぐった。騎士館まで運んでいる余裕はない。正門をくぐるなり、駆け寄ってきた兵士達に手を借りて背に乗せた人を降ろし、最も近い部屋へと運ばせた。
騎士館に隣接する医務室にも、すでに連絡は入っている。優秀な医官達が医療道具や薬を抱えて飛び出していくのを、ソランジュも確かにその目で見ていた。春先の青空のように、ほんの僅かに白く紗がかったような柔らかい空色の瞳が、今や生気を失くして虚空を見つめている。
優秀な医官達が数名、十番隊に従軍しているはずだった。誰もが軍医として腕の立つ者達だ。多少の怪我であれば、十分に事足りる。しかし、“その人”は一刻も早く城に戻って治療を受けなければならないと判断されたらしい。本来ならその場から動かすのも躊躇われる容体だと聞いた。ここまで戻ってこられたことそのものが、奇跡だと。
「うそですよね、せんせい……」
戦場さながらの喧騒に満ちた城内を、震える足でひた走る。何人もの負傷者が運ばれ、汗だくになって走り回る医官達の白が視界に踊った。呻き声が耳を犯す。本来ならばここで足を止め、未治療の兵士を看なければならない。医官見習いとしての義務など、今のソランジュの頭からはすっかり抜け落ちてしまっていた。
廊下に血の跡が落ちている。本能的にそれを辿り、転ぶようにして飛び込んだ一室に、その人はいた。
「せんっ、先生! 嘘でしょう、いや、なんで怪我してるの! ねえ、先生! せんせぇっ!!」
「どきなソランジュ! ここはアンタみたいな半人前の来るとこじゃない!」
年配の女医を押しのけてフェリクスに駆け寄ろうとしていたソランジュは、容赦なく突き飛ばされてその場に転んだ。棚に頭を打った拍子に金盥がひっくり返り、頭から消毒液を被る。涙が溢れたのは液が染みたからではない。誰が見ても分かるその表情に、女医は思い切り眉根を寄せて吐き捨てた。
「オイ、誰かこのお嬢ちゃんを追い出しな!」
手の空いた医官がソランジュの腕を掴んだが、どこにそんな力があるのかと驚かせるほどの馬鹿力で彼女はそれを振りほどいた。簡易に作られた寝台の上で血まみれになって眠る人に、縋るように駆け寄る。足元に広がる赤い水溜まりが靴を汚した。