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耳に残っているのは、「いつもの」声だ。飾り気のない、その声。
シエラを「シエラ」と呼ぶあの声が、今はもう聞こえない。
手の甲に残る感触が、今までのものとはすっかり違ってしまっていた。だってこれは、シエラに対して与えられたものではなかった。エルクディアはその唇に忠誠を乗せ、神の後継者の手に刻印したのだ。
テュールの舌が頬を舐める。淡く光るクラスターは、シエラを慰めようとでもしているのだろうか。小さく笑って、シエラはテュールの身体を胸に抱き寄せた。美しい緑の鱗が並ぶその身体は、伝説の時渡りの竜のものだ。見上げてくる左右異色の瞳に、金の双眸が映り込んでいる。
――ああ、そうか。
そのとき、シエラの中になにかがすとんと落ちてきた。気がついてしまえばあとは早い。胸の隙間にぴたりとあてはまった答えは、小さな痛みとともに正解を教えてくれた。
あれほど必死で手を伸ばしてきたのは、あれほど強く名を呼んでくれたのは、この身体が「神の後継者」のものだからだ。だから彼は守ってくれる。必死で、命懸けで。「神の後継者」はなににも代えがたい、大切な存在だから。
「……なにを勘違いしていたんだろうな」
気がついたのは、緩やかな自覚が芽生えた直後のことだった。
彼ははっきりと、シエラの目の前に線を引いていたというのに。
どうして最も大切なことを忘れていたのだろうか。
「私は、“神の後継者”だったな」
蒼い髪に、金の瞳。
攻守どちらの力をも併せ持つ、千年に一度現れる救世主。
たった一人の、神の後継者。
俯いた拍子に髪が零れた。視界に入った蒼が憎い。この色が、もしも他の色だったなら、こんな思いを味わうことなどなかったのだろうか。
いっそ、恨めしい。
すべてが間違いだったというのなら、どうして最初から貫き通してはくれなかったのか。
従者だというのなら、どうしてその手で「鎖」をかけたのか。
――ぷつり。
力を入れて手を引けば、華奢な鎖はいとも容易く千切れた。垂れ下がる銀を伝い、青い石が転がり落ちる。人魚の涙を模したという、ホーリーブルー。青を閉じ込めた、特別な石。
芽吹いた花に、慟哭を。
これ以上咲くな、どこにも咲くな。風が吹いて散らしてしまえ。雨が降って腐らせてしまえ。あるいは日照りで枯らしてしまえ。
名づける前に、どうか、消えてくれ。
摘まねばならない花の名など、知りたくもない。
+ + +
水面に映る蒼い月。
掬おうとして気がついた。
竜の爪では傷つける。きっと月が割れてしまう。
ならばせめてくちづけを。
けれど竜はたじろいだ。
竜の牙では傷つける。きっと月が割れてしまう。
揺れる水面をただただ見つめ、竜は静かに目を伏せる。
この爪で、この牙で、どれほどの命を屠っただろう。
赤く汚れた己の身体。ひとたび翼を羽ばたけば、水面の月は容易く揺れる。
空を見上げ、水面を見下ろし、竜は静かに目を伏せる。
届かぬ思いに蓋をして、流れる星を見送った。
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