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 真正面に広がる大きな窓は、光を乱反射させるほど美しく磨き上げられている。
 大半は庭に植えられた木々の緑によって景色が埋められているが、上半分は透き通る青空が広がって見えた。
 棚に詰まれた木箱の中には、窓掛けやら古い絵画などが大量に保管されている。
 古ぼけた本棚の向こうに滑っていったライナの白い服を追いかければ、青年王は優雅に足を組んで読書に耽っていた。シエラと目が合うなり本を閉じ、頬杖をついて彼らを迎え入れる。
 机に立てかけられた聖杖の法石が、きらりと緑色の光を反射させた。

「ご苦労様。勉強中すまなかったね、蒼の姫君。ライナ嬢も随分と機嫌が悪そうだけれど……、どうかしたのかな?」
「いいえ、なにも。それより陛下、シエラに代わりの教育係をお雇い下さい。フルー先生はおやめになるそうですから」
「辞める?」

 急な話だね、と笑いながら言うユーリは、微塵も困った様子など見せない。ちらとエルクディアに向けられた視線が、やけに楽しそうだった。

「ええ。ですから、早急に次の教育係を探す必要があります」
「ならエルクでいいじゃないか。護衛も兼ねて一石二鳥だろう? はい決定」

 エルク、そこの書類を取ってくれ。
 そんな台詞と同じような軽い調子で、彼はあっさり言ってのけた。呆然と突っ立っていたエルクディアは数回ユーリの台詞を頭の中で反復させ、ようやくその意味を理解する。

「ちょっと待て! できるわけがないだろ。俺には聖職者の知識はないし、こっちだって忙し――」 

 忙しい、という台詞は、目の前に突きつけられた聖杖によって遮られた。隣で見上げるシエラから見てもそれは本当にぎりぎりの位置に据えられており、下手をすれば彼の目を潰していたのではないかと懸念するほどだ。
 そんな状況を作ったユーリは相変わらずの笑顔を湛え、聖杖を下げる。
 嚥下された言葉は、ずっしりと重みを伴ってエルクディアに圧し掛かった。突き刺さる――そう、笑顔なのに深々と――視線と沈黙に彼は頬を引きつらせながら、息を吐く。

「エルク、キミの言いたいことは分かるけどね。でも神の後継者に指導書通りの法術なんてもの、必要ないんだよ。彼女に必要なのはむしろ戦術、処世術、そして多種多様の幅広い知識。これならキミでも十分教えられるだろう?」
「……まあ確かに、それが適役とも言えますね」
「だけどそれは、あまりにも無茶苦茶すぎるだろ!」
「それはやってみないと分からないよ、エルク」

 自分の話をされているにも関わらず、ぼんやりと壁に掛けられた絵画を見ていたシエラは、ユーリの言葉をほんの少し租借してみた。
 「指導書通りの法術」がいらないというのであれば、自分は一体どうすればいいのだろう。
 小麦につく害虫の駆除の仕方は知っていても、魔物を祓う術など知らない。よい肥料の見分け方は知っていても、結界を張って身を守る術など知らない。
 なんの知識もない神の後継者が、どうやって世界を救うというのか。
 まるでシエラの内心を覗いたかのように、青年王は言う。

「我々聖職者が使うもの、それが神言だ。それに組み合わせてロザリオや聖水を使うことは、誰だって知っているだろう」

 ゆっくりと視線をユーリに戻す。

「神言は、神が我々に与えた特殊な言の葉――呪文とも言うね――でね。祓魔師と神官、同じ神言を紡いでも効果がまったく違うということは常識だ。けれどこの神言、少しややこしくてね。元来神言というのは、聖職者の持つ力を補助し、増幅させるものでしかない」
「どういう……?」
「滑車みたいなものだよ。神言という滑車があることによって、少しの力でも大きなものを動かすことができる。さあ姫君、ここで質問だよ。もともとその“大きなもの”を動かせる力を持っていたとすればどうだろう。滑車は必要かな?」
「必要ない」
「その通り。だから能力の高い聖職者は神言の詠唱を破棄、または省略することができる。私が主に使う法術はそれだよ。よほど相手の力が強くない限り、私は神言を必要としない」

 一見ただの自慢にも聞こえたが、真意は別のところにあるようだ。 
 そこでなんとなくだが話の先が見えてくる。人であるユーリが神言を必要としない。となれば、神の後継者である自分も当然そうなのだろう。

「神の後継者の持つ力は計り知れない。必然的に神言の詠唱は必要なくなる――と言いたいところだけど」

 言いかけたユーリの言葉に、シエラとエルクディアが同時に目をしばたたかせた。
 青年王の台詞は、見事に予想を裏切るものだった。先ほどの説明と矛盾が生じるではないか。そんな疑問でさえ、微笑みのあとに打ち消されてしまう。

「姫君の場合は秘めている力が強すぎる。だから君は神言を“滑車”ではなく、“枷”として使わなくてはいけないんだよ。定められた正規の神言ではなく、自らが作り出した制御の神言で己の力を戒める――というわけだ」
「自らが作り出した神言、とは」
「一言でいい。具体的に法術の効果を思い描いて、そしてそれを導く一言を発してやればいいんだよ。例えば……<来い>とかね」

 すっとユーリが近くの書棚を指差すと、がたりと音を立てて一冊の本が飛び出してきた。寸分の狂いもなく青年王の手の中へと飛び込んできた本を見て、シエラは思わず感嘆の息を漏らす。
 どうやら魔物相手ではなくても、法術というものは使えるらしい。ただそれはあまり良いことと見なされていないらしく、聖職者は魔物と退治する以外では法術を使用しないのが基本とされていた。
 手にした本を傍らに寄せ、青年王は「分かったかな?」と首を傾げる。今のは風霊を頼ったのだと、種明かしをされた。

「姫君は念じるだけで相当の力を使えるはずだよ。基本的には、ね。大まかなことは私とライナ嬢、他の聖職者で折を見て教えよう。だからエルク、あとは任せたよ」
「……だったらなんで、わざわざ王立学院から講師を呼んだんだ」
「ん? なにか言ったかい?」
「いーいーや、なにも!」

 子供のように我を張って応えるエルクディアにライナは苦笑しつつ、新しい教育係の誕生に賞賛の拍手を送った。どうやら助け舟を出す気はないらしい。

「あーもう、なんで俺がこんな目に……。シエラはいいのか? 俺が教育係もどきでも」
「別に誰でも構わない。どうせ面倒なことに変わりはないからな」
「……そーですね」

 脱力しきった返事を返されたが、その理由を解することはできなかった。途端にライナが噴出したのだが、なにが面白いのかもシエラには分からない。眉根を寄せた拍子に、ユーリと目が合った。
 青年王の青海色の双眸がきゅうと弓なりにしなり、深みを増したように見える。
 一瞬背筋に走った悪寒は一体なんだったのか。
 分からないまま、シエラは耳朶を叩く青年王の甘美な声を受け入れた。


「まずは習うより慣れろ。というわけだから、最近王都を騒がしている魔物の討伐に行っておいで」




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