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けれどライナもきゅうと口端を吊り上げて微笑み、長椅子から立ち上がってやや高圧的とも取れる雰囲気で、フルーを見下ろしている。
ぎりりと唇を噛み締める教育係はどこか恨めしげにラヴァリルをねめつけたが、それもライナの得意げな笑みによって打ち消された。
ライナは自然な動作でエルクディアの隣まで来るとそっと彼の肘の辺りに手を置き、頭を預けるようにして首を傾けた。実際腕に触れているのは彼女の髪と添えられている手のひらだけだったのだが、正面から見れば寄り添っているように見えたのだろう。
フルーの顔色がさっと変わる。
「じゃあエルク、早く陛下のもとへ参りましょうか。それからシエラ、陛下に言って新しい教育係を探してもらいましょうね。フルー先生はお辞めになるそうですから」
「そうか」
辞めると言われても異論はない。好きにすればいいと思うし、フルーに興味も湧かない。
そういった意味を込めて短く応えたシエラに、針のような視線が突き刺さった。神の後継者という立場を考慮してか、ライナやラヴァリルに向けられたような分かりやすい悪意はない。
けれど視線の奥に潜ませた感情は隠しきれず、確かにシエラに届いていた。
教育者としての矜持を傷つけられたからなのだろうか。彼女は悔しそうに唇を噛む。
「陛下にはわたしからきちんとお伝えしておきますね。なのでどうぞ早急にお引き取りください。まあこれでもうよほどのことがない限り、エルクと共に仕事をする機会はないでしょうけど――気を落とさずに。フルー先生」
冷ややかな棘つきの笑顔が向けられたとき、ようやくラヴァリルがその場の空気を察したらしい。
ぱちくりと何度も目をしばたたかせ、意味ありげな視線をエルクディアに向けた。その意を汲み取り、彼は小さく頷く。
「あっちゃー……もしかしてあたし、間の悪いときに来ちゃった?」
「いや、むしろ絶妙だったよ。――ほら、ライナ行くぞ。フルー先生、それでは失礼致します」
「――っ! メイデンさん、せいぜい王立学院の顔に泥を塗らないよう、精進してくださいまし!」
「先生こそ、優秀な教育者の名に恥じぬ行動をお願いしますね。それでは」
のんびりおっとりとした村育ちのシエラにしてみれば、このような嫌味の応酬は初めて目にするものだった。
互いに一歩も譲らないとはこのことを言うのか、などと少々ずれた観点でものを見ていた彼女は、くいっと腕を引かれてたたらを踏んだ。
ラヴァリルに礼を言ったライナがエルクディアの腕に自らの腕を絡ませ、ぐいぐいと引っ張って進む。それにつられて彼もまたシエラの腕を引いているのだから、傍目から見れば異様な光景だっただろう。
大きく手を振るラヴァリルと怒りで顔を火照らせるフルーを見送り、シエラは客観的にそう考えた。
角を曲がり、フルー達から姿が見えなくなった途端、ライナはするりとエルクディアの腕を解放した。そのまま無言で突き進む背は彼女の不機嫌さが滲み出している。
窓から吹き込んでくる風は優しい。清涼たる香りに緑は映え、庭に揺れる花々は鮮やかだ。
すれ違う侍女や兵士は皆、笑顔か襟を正した表情で頭を下げる。中には気安くエルクディアに声をかける者もいたが、シエラにはそれが一体どういう関係なのか分からなかった。
それにしても眠い。眠すぎる。いくらアスラナ王国についての勉強だからといって、創世神話から聞かされたのでは堪らない。意識に逆らって降りてくる瞼に悪戦苦闘していたら、隣から苦笑が聞こえた。
視線を上げる余裕すらなく、シエラは舟を漕ぎそうになるのをなんとか堪える。
ふいに手が引かれ、ほんの一瞬ぱちりと目が開いた。己の手に視線を落とせば、それは剣だこのできた手に繋がれている。
「子供体温。――寝るなよ? 今寝たらこけるぞ」
「うるさい。……さっさと歩け」
「はいはい」
どうやら見かねたらしいエルクディアが、気を遣ってくれたらしい。
離せと言って手を振り払うことは簡単だったのだが、眠気に抗えそうにもないのでシエラは大人しく手を握られたままでいた。
騎士として互いの仲を誓い合った女性以外にべたべたと触れるのはあまり良いことではないのだが、そのようなことをシエラが知るはずもない。
尊敬の眼差しに混じる、意趣の視線にさえ気づかないのだから。